極 夜
ある日を境に、猫が通うようになった。
邸の者は、獣が、それも野良の、泥のついたようなのが邸に上がるのが我慢ならないようだったが、私は違った。初めはひとえに、物珍しかったからだった。自分で言うのもなんだが、いわゆるところの「深窓」だったので。
部屋の窓から見えたのだ。その薄汚れた猫が、腹を空かせてゆっくりと歩くのを。毛足は汚れていたが、それでも芯にある気高さは隠しきれずに顔に現れていて、それで私は、どうにかいっときだけでも手なづけられないかと思案した。
餌を投げつけてみた。猫はすぐさま顔を上げ、飛んできた方向を──つまりこちらを見定めるとぴゅっと姿を消した。
失敗だったか。いきなり物を投げるのはたしかに失礼だったかもしれない。
肩を落としていたが、その翌日も猫は同じ場所に現れた。
結局、うまい方策は思いつかず、その日も私は餌を投げた。前日とは違って、近くに落として、うまく猫のもとへ転がるように。
猫はすぐには動かなかった。まるで予想していたかのように、足元にやってきた餌を一瞥し、それには手をつけずにゆっくりと顔を上げてこちらを見た。視線がかち合う。
猫が歩き出す。その足取りは優雅とさえ言えるもので、汚れた姿で外に出ている方が何かの間違いのようだった。
やがて猫は建物の影に入ってしまい見えなくなった。投げつけた餌だけがぽつんと残されていた。
それからだった。私の部屋に猫が通うようになったのは。それからというもの、私の遊び相手といえば猫、猫、猫。
床で、寝台の上で、露台で、部屋のあらゆるところで戯れた。猫は遊ぶのがとても上手だったし、私を喜ばせるのもとても上手だったから、すぐにのめり込んだ。大人になってから覚えた遊びというのはなかなかやめられないものだという。まさにその通りだった。
ここに住めばいいのに、と思いついたのは猫が通うようになってすぐのことだ。そうすればもっとずっと遊んでいられるのだし。
私は毎回、猫が逃げないようにあらゆる出入り口をきっちりと閉め切った。それなのに、甘美な夢に耽って息も絶え絶えな私が夢うつつのうちに、するりと姿を消してしまう。
だから私はまたしても、無い頭を懸命に捻って策を考えた。
枕の下に縄を用意した。首輪をつけようと思ったのである。繋いでしまえばどこへいく恐れもない。手枷と頑丈な錠前も用意して猫を待った。
覚醒した私を待っていたのは、白い天井と、こちらを見下ろす猫の顔だった。ハッとして頭を持ち上げると、寝台に縛り付けられているのは私の方だった。
猫は縄の端をわざとらしく見せつけて鼻を鳴らした。
「待って、これは、その、違うの」
「こんなものまで用意しているのに?」
隠していた手枷まで取り出されては言い逃れのしようもなかった。
「下策だね。このまま戯れを続けていれば、終わらぬ夢も見れたものを」
そう言ったきり、いちども振り返らずに、猫は窓から出ていった。
以来、猫の姿は見ていない。
ギーヴ 【極夜】深窓・夢うつつ・終わらない夢
夕 凪
「これは、内緒の話ですよ」
その声の届く範囲にいることが、親密さの現れだった。どこかくすぐったい気持ちになりながら、女は合わせて声を潜めた。
「ぜひ、聞かせてくださいな」
「あのお方は、魚が苦手なんだ」
それだけ?という顔を女──アイーシャがすると、エラムはわかってないなという風に肩をすくめた。
「好悪を表に出すことの影響力をご存知ないようだ」
「私の仕えた方ははっきりしていらしたから」
そう返すと、彼はすこし上の方へ目線を向けてアイーシャの元の雇い主を想像したようだった。
「それで、魚のどこが苦手なんです? 目ん玉? それとも鱗?」
「骨の多いのが厭なんだと仰っていた」
「まあ、それは……」
堪えきれずくすくす笑うとエラムはむっとしたように少し唇を突き出した。下手な言い訳は余計に機嫌を損ねると知っている。余韻のように続く笑いを、目線を落として手持ちの果物籠にそっと紛れさせた。
アイーシャとて莫迦ではないつもりなので、『好悪を表に出すことの影響』はわかっている。それが他国にまで名の知れた人物の発言であれば、なおさら気をつけねばならないことも。しかし、聞けば領地はダイラムにあったと言うではないか。あのあたりはダルバンド内海の沿岸、肉より魚の方が食卓に上がる地域だろうに、よりにもよって「魚が苦手」とは!
「ナルサス」といえば神算鬼謀の知略を持ち、言葉だけで国を滅ぼせるとも噂される人物だ。そんな御方が子供のように骨が多くて嫌とは、まったく恐れいる。冷徹さと無邪気さが同居しているようだった。
そうして、そんな秘密を打ち明けられるということは、エラムが彼の無邪気さの部分に踏み入ることを許された証に違いないのだ。
「骨取りは私の仕事だったのに……」
ともすれば風の音にさえも消されてしまいそうな小さな声がぽそりとこぼれ落ちた。おや、とさざなみのような笑いが引いていく。
潮の香りがした。
ここは、海から遠く離れた王都。そんなもの漂うはずもないのに。
顔を上げると、エラムは遠くの方へ視線をやっていて、その柔らかさを僅かに残した輪郭から水滴がひとつぶ身を投じるところだった。そのたったひとつぶ分で、終わりだった。アイーシャが塩辛い香りに気づかなければ、もしくはあと一瞬遅ければ、見逃していただろう。わざわざ自己申告などはしないひとだから。
咄嗟にかける言葉をアイーシャが拾い上げるまでの一瞬の静寂を、彼は見逃しはしなかった。
「秘密だ」
「……ええ、はい。必ず守りますとも」
「おまえはうっかりしているから不安だな」
顎の湿り気をゴシゴシと拭っているエラムに、籠から林檎をひとつ手渡した。
「明日のシャーベットに使う分だろう」
「エラム様がうっかりものの私のために、少し余分に頼んでいらっしゃること、存じてます」
「なら、遠慮なく」
そう言って一口齧ってから、エラムはふふ、と口元をゆるめた。
「おまえ、今日はもう転べないな」
エラム【夕凪】潮の香り・内緒話・静寂
忘れ雪
秋も深まる頃、ここに来るのはこれで最後になる、と言われた。だから、赤くなった葉が降り積もるなか、イスファーンはラーレの球根を中庭に植えた。それが毎年の恒例だった。
イスファーンの暮らす地域は冬になると雪が積もる。そうなると、移動は格段に難しくなる。それゆえシャプールは、冬が来る前にこの領地を経って王都に向かうのだ。
この習慣がいつごろできたものかイスファーンは覚えていない。しかし経緯はわかる。家令がなんども口にしたものだから。
曰く「シャプール様の前では見栄を張って物分かり良いふりをして見送ったくせに、その夜にはもう泣いていらした」。
また曰く「連日泣いてばかりで剣の稽古にも身が入らず、シャプール様にそのようにご報告申し上げましょうかと言ったところ、それで帰ってきてくれるならそれでもいいと余計に泣いて床に突っ伏した」。
ほとほと困り果てた家令──当時はまだただの使用人だった──はありのままの現状をシャプールに報せた。返ってきたのは「次の春に帰るから我慢せよ」との文。それから「帰る家がわからなくならないように、目印になるようにこの花の球根を植えてほしい。花を見られるのを楽しみにしている。頼んだぞ、イスファーン」と書き添えられた小包だった。
もちろん、イスファーンは奮起した。花を萎れさせては兄を失望させると、花がなければ兄が帰ってこぬと、本気で信じ込んで精一杯世話をした。そうして兄を見送ったあとに球根を植えるという習慣が出来上がったのだ。
他人に知られては赤面するしかないゆえに、自分から誰かに話したことはない。家の者しか知らぬイスファーンの子どもじみた儀式だった。だが、毎年手紙と共に届くその球根はよすがだったのだ。そろそろ中庭じゅうを埋めそうな量のラーレは、それだけシャプールと約束を交わし、そのたびに約束を守って帰ってきた兄の証明である。兄は確かにいたのだという、存在の証明である。
今回もイスファーンは球根を植えた。水をやり、芽を啄もうとする野鳥を追い払い、時に肥料を与えてよく世話をした。
年が明けて、空気に青葉の匂いが混じるようになった。すらりと伸びた茎の先についた蕾は今にも開きそうなほど綻んでいる。春の気配だった。花は咲くだろう。しかし、もう兄は来ない。
イスファーンは蕾を摘んだ。見る者のない花は不要であるので。
イスファーン 【忘れ雪】春の気配・存在証明・最後
迷 霧
花の赤。果実の赤、夕陽の赤、炎の赤、血の赤。種々あるが、今日だけで一生分の赤を見たような気がする。
濛濛と天を衝く煙は人血と悲鳴を纏っていた。突如として口を開いた奈落に、シャプールの麾下の半数は呑まれてしまった。シャプールが今なお命あるのは、単に運が良かったからにほかならない。あと数ガズ横に馬を立てていたなら、あるいは異変に気づくのがあと数瞬遅れていたなら、麾下同様、今ごろ地獄の火の燃料となっていたことだろう。
いや、この場は地獄となんの違いがあろう。
隊長を喪ったクシャエータの麾下と合流しながら、シャプールの意識は戦闘に没頭できずにいた。その精彩を欠いた様を見咎められたのだろうか。気づけばクバードが馬を寄せ、時をおかずして伝令兵が駆け込んできた。
信じ難いことだが、王が退却の命を出さぬままお退きあそばされたと。
動揺のままに兜を擲つと麾下にも動揺は広がっていた。
おそらく、今回の戦はただ戦うだけでは勝てないだろう。いや、もはや勝つ目などないのかもしれぬ。だが、だからといって逃げ帰るなどということはできない。背後にあるのは国の民で、誰かの家族なのだ。今この場での己の役目は、一人でも多く生かして帰すこと。一人でも多く敵を屠ること。改めて役割を腹の底に落とし込んで、シャプールは槍を握り直した。
それから何刻が経っただろうか。クバードは随分前に兵を纏めて撤退していった。少し前にシャプールの騎馬がやられている。もはや付き添う兵はいない。敵兵は引もきらず押し寄せる。視界は血のせいでほとんど使いものにならなくなっていた。腕はまだ動く。脇腹の出血も気になるほどではない。シャプールはまだ足の動くことを確認して隘路を目指した。血痕が尾を引いて後に続く。
風向きが変わったのか、横から煙が吹きつけてきた。視界が黒煙で埋め尽くされ方向を見失う。風に乗って悲鳴がそこかしこから届く。もはや助けるどころか我が身の生還さえ叶うまいというのに。そういう意味では、この場で湧き起こる悲鳴は誰にも届いていないのと同義であった。
悲鳴を共連れに、シャプールは歩いた。狭き方へ、敵なき方へ。
その歩みを俯瞰するものがあれば、円を描いていると気付いただろう。荒野を彷徨い歩くシャプールの意識は朦朧としていた。
赤。炎の赤。命を燃やして盛る火は、いまだ落ち着く気配を見せない。失った血の分冷えた体は、悍ましいはずの熱気に心地よささえ覚えはじめている。
赤。血の赤。今日一日でどれほどかぶったかしれない。吸い過ぎて重くなった外套はどこかへうち捨ててきた。
赤。目印の赤。春になると我が家の中庭に色づく素朴な赤。亡霊になったとて必ず見に戻るから。ラーレの赤。泣きすぎて色づいた目尻。あの花を見るまでは死ねないのに、先ほどから景色が、ちっとも変わらない、のは、いったい、どういうわけなのか……。
シャプールは音を立てて倒れ込んだ。その耳にもはや馬蹄の響きも断末魔も届かない。ただ炎を透かして見る眼裏の赤さを最後に見、意識はふつりと途絶えた。
シャプール 【迷霧】亡霊・誰にも届かない・彷徨い歩く
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