前 奏
持っていた傘を振り下ろした。そこに一切の思考はなく、良心の呵責もまた無かった。使い古された表現ではあるが、身体が勝手に動いていた。
◇
「シャプールくんに、お見合いの話が来ていることは、知っているかな?」
無害そうな顔をしてそれは近づいてきた。平和そうな顔、敵意のない足どり、しかし確かに凶器を携えて。親の友人だった。「■■さま」何度か屋敷で見かけたことがある。ふたりだけで話をしたことはなかったが。失礼があってはいけない、そう思うも、相手は凶器をひらめかせるのだ。「今までは弟がいるからと断られてたんだけど、」顔が強張って表情がつくれない、こんな時に見せるべき表情とは、いやそれよりも見合いってなんだ、なにも聞いていない、また置いていかれるのか「相手はうちの娘でねぇ、」なんだ、なにを言っている? 違う国の言葉みたいに、聞こえるのに全く意味がわからない「はは、彼にお義父さんって呼ばれるのか」口を動かしている男の顔も、なんだか醜怪な肉のようにしか見えない、うるさい、不快な声で喚くな、誰かこいつを黙らせてくれ、「きみも家族に」肉が伸びてきて、肩に触れようと…………
目の前が真っ暗になった。
たったひとつの感情だけを原動力にして持っていた傘を振り下ろした。そこに一切の思考はなく、良心の呵責もまた無かった。使い古された表現ではあるが、身体が勝手に動いていた。
気がつけば目の前に肉の塊が。さっきまで動いていた醜怪な肉は、黙らせてから見てみれば人間だったとわかった。
現金なものだ、自分に都合の悪いものは人間扱いしないつもりか。そしたら罪悪感なんて覚えないもんな。
すこし笑って、それから、腹の奥から込み上げてくるものを耐えきれずに土に放った。
兄の、奥さんになるかもしれない人のお父さんだった人。未だ体面を気にする古い家というのはどこにでもある、片親になってしまったら見合いは御破算だろうか、可哀想な見知らぬ娘、一家の大黒柱を、頼るべき、親を、亡くして……また迫り上がってきた酸っぱいものを地面に吸わせた。
呆然と地面に座りこんでいると、先ほどからなにかチラチラと脳裡に煌めくものがある。どっかおかしくなったかな、と思いながらもそれを眺めていると、やがて煌めきはバチバチと大きくなり稲光の奔流のように眼前を覆った。
その向こうに何かある、そんな気がして掻き分けてかき分けてかきわけて、……やがてひとつの場面に辿り着く。
ベランダ――バルコニーと言うのだろうか、そこから男が手摺りを越えて姿を消す。
たったそれだけ。それを少し低い目線から見ている。翻る布、飛び降りているというのに危う気のない身のこなし、そして葡萄色の髪。
その場面に憶えは無い。だが、その人物には心当たりがあった。なぜか顔もわかるし、その人で間違いないという確信さえある。
今このタイミングで浮かんできたのは、神さまとやらのお告げだろうか。そういうことにしよう。信じてもいない存在に責任を押し付けて立ち上がった。
向かうべきところは決まった。あとは動くだけだ。なるようになるだろう。自身にしてはいささか珍しい心境だった。
さて、まずは死体の隠匿から。
吐いたから軽くなったのだろうか。足どりは妙にふわついて、不思議な、現実感のない高揚を味方につけて、あんなにも嫌悪した肉に手を伸ばした。
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旧題「一緒に埋めてくれるギヴ殿(埋めてない)」
何度も転生して出会ったり出会ってなかったりしているギヴイス。
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