! 現代パロディ
! キャラクターによる犯罪行為
手遊びに楽器を弄んでいると、インターフォンが無機質な音でギーヴに不意の来客をしらせた。さして音量は大きくないのに不思議と響くものだなぁ、と思う。同時に脳内では、今日は来客の予定など無いことを思い出している。
あえてドアスコープは覗かなかった。モニターだって存在しているけれど、突然の客が誰だかわかってしまえば面白みにかけると思っている。無難な人生よりも驚きと起伏に溢れた人生でありたい。それがギーヴの持論だった。
「さて、お顔を拝見っと――」
唇を固く引き結んで、呼吸は浅く速く。
ドアを開けたギーヴの目の前で、視線をうろうろさせながら立っていたのは、イスファーンという男だった。栗色の髪をひとつにまとめた、飾り気のない男。同じ大学に通っている、確か歳も同じはずだ。同じ講義を履修していたこともあったようなないような。
というのも、ギーヴの人脈というのは驚くほどに広くあらゆる方面に張り巡らされているので、自身でさえもどうして知っているのだったか、直接顔を合わせたことがあるのか、それとも情報として知っているだけなのか、時折わからなくなってしまうのだった。
だが、この男は突然、それもたいして付き合いのない人間を訪ねてくるような性格ではなかったと思うが……。
「何の用?」
にこやかとは言い難い調子でギーヴは尋ねた。その気になれば相手に愛想笑いだと微塵も悟らせない、とびきりの笑顔を振りまくこともお手の物のギーヴだが、彼にとってそれは、決して男に対して無償でくれてやるものではなかった。
答えが返るまでには暫しの時を必要とした。目の前の男はまぶたを伏せて深い呼吸をいくつかし、口を開くのと同時にその瞳を日に晒した。透き通った琥珀の上にまつげが影を落としているのを見た。少し掠れがちな声が耳に届く。
「 ひとを、 殺して しまった…… 」
ギーヴは、それを聞いたとき、自身がどんな表情をしていたか思い出せない。いつだって己が他人にどう見えるか、どんな印象を与えるかを理解した上で振る舞っているし、それは意識しなくてもできることだった。そんな男が、表情を繕うことを一瞬であったとしても忘れたのだった。ただ脈拍が一気に加速して、手足が痺れるように熱くなったことだけを憶えている。
「あ〜ららぁ、どうしてそんな面倒ごとをおれの所に持ち込んだわけかな?」
頭蓋骨の内側からがんがんと叩くような音がしているのを無視しながら、平静を装ってイスファーンに声をかけた。
「ここは警察署じゃないけど?」
イスファーンはさぁ、なぜかな……と自信なさそうに呟き、また何度か足元に目をやり、左右を見て、それからようやくギーヴの顔を真正面から見据えた。
「なんとなく顔が思い浮かんだからっていう理由じゃ、だめか?」
主 題
「及第点だがまぁ良しとしよう」
イスファーンを部屋に招き入れた男はそう言った。ひとり掛けのソファを顎で示すと、イスファーンを放置してあちこちの引き出しを開けたり、箱をガサゴソしたり、何をしているのかわからないが色々と動き回っている。それが決して忙しなく見えないのは男の持つ雰囲気か、あるいは身のこなしのせいだろうか。
それにしても、とイスファーンは思う。おかしな男だ。普通殺人を告白されたらもっと取り乱すだろうし、然るべきところへ自白を、と促されるだろう。あるいは信じないかもしれないし、そんなことに巻き込まないでくれと追い返すことも妥当な判断と言えよう。この男はなぜ、犯罪者を部屋にあげているのだ? そしてなぜそんなおかしな男のもとに、おれは来てしまったのだろうか。
黙考しているあいだにおかしな男はすべきことを終えていたらしい。彼はイスファーンの正面に置かれたソファに優雅に腰を下ろして、嫌味なほど長い脚を見せつけるようにしてゆっくり脚を組んだ。
「さて、イスファーン」
「おれを知っているのか」
「ああ、知っているとも。同じ講義を受けていたじゃないか。それとも薄情なイスファーンはおれのことなんか忘れてしまった?」
どうやら同じ講義をとっていたらしい。イスファーンはさして他人に深い興味を持たないから覚えていなかった。
「おれの名前は?」
おかしな男はわざとらしく自身を指し示すと、その掌をひらりと翻してイスファーンに向けた。イスファーンの口から答えさせようというつもりらしい。ずいぶんとおしゃべりな男だな、とイスファーンは脳内の情報を更新した。知っているのかどうかだけ答えればいいのに。
「……ギーヴ、だろう」
「よくできました」
そう言いながらギーヴはわざとらしく拍手した。おまけに目じりの涙を拭うふりまで。ずいぶん芝居がかった動作だった。イスファーンがそれを黙って見つめていると、ギーヴは再び尋ねてきた。
「それで、今死体はどこに?」
「人目につかないよう裏山に隠してある。うちが管理をしているから普段は誰も立ち入らない場所、だ……?」
その答えを聞き終わるより前に、ギーヴは立ち上がって玄関に足を向けていた。
「そうか。ではイスファーン、おれはこれからホームセンターと薬局に向かう」
「えっ? あの、」
「お前はでかいドラム缶か寸胴鍋の担当だ。人が入るくらいのな。ああ、くれぐれもアルミ製はやめてくれよ?」
◇
「ちなみに、どうやって入手した?」
指示された場所へ、ドラム缶を載せた台車を押すイスファーンが現れると、ギーヴは開口一番そう訊いた。
「ドラム缶か寸胴鍋の担当」を仰せつかったイスファーンは、部屋を出て行こうとするギーヴを慌てて追いかけ、彼の連絡先を手に入れた。その後イスファーンがドラム缶を手に入れて一息ついたところを見計らったかのように、住所だけが記されたメールが届いていたのだ。おそらくここへ来い、ということだろうと判断しやって来たところ、あの質問が浴びせられたのである。
「知人がガソリンスタンドで働いていてな。安く譲ってもらった」
「なんて言い訳を?」
「……ゴエモン風呂、に、入ってみたい、と……おいこら、笑うな! 他に必要になる場面など思いつかなかったんだ!」
「そちらの工具は? もしかしてノコギリかな?」
「さっきから質問ばかりだな、こっちの質問には答えないくせに」
「性分でね」
自身についてはそう一言で片付けておいて、また質問が再開された。
「ところでずいぶん準備がいいじゃないか、もしや手慣れていらっしゃる?」
「そんなわけないだろう。初めてだ。初めて、兄に顔向けできないようなことをしている」
そう言うとイスファーンは挑むような目でギーヴを睨んだ。
「……ああそうとも、これはノコギリだ。薬局、アルミニウム製ではない大きな鍋、というので、水酸化ナトリウムで溶かすのかと推測した、だからパーツごとに分けたほうが早いかと考えた! どうだ、おれは殺人の罪を犯しただけでなく死体の損壊に前向きな、人でなしだ!」
イスファーンは早口に言い切った。彼は焦っていた。なぜギーヴが協力してくれるのか、皆目見当がつかないからだ。何をすれば喜ばれ、何をしたら落胆されるのか、全く予測がつかない。それはつまり、いつギーヴに放り出されるかわからないということではないか。突然興味が失せて、ここからはひとりでやってくれ、そう言われる可能性も大いにあり得る。イスファーンはそう考えていた。それゆえ試すような発言をしたのだった。もう二度と放り出して置いていかれたくなかった。
「どうだと言われても……お前さんが殺意を向けるなんて、そいつが余程のことをしたんだろうさ」
おれがかつてしたように、という言葉は口にしなかった。
「いまさら何があったって軽蔑なんてしないから落ち着けよ」
ギーヴは眼を細めてうすく微笑んでいた。
二人が今いる場所というのは、死体を置いてある裏山から少し離れたところにある廃工場だった。
埃っぽくてカビ臭く、お世辞にも長居したいとは言えない空間だ。床には紙や、なにかのパーツが散乱している。おかげで非常に台車が押しづらい。天井はところどころ破れていて、電気がつかなくても困らない程度には明かりが差し込む。ティンダル現象、というのだったか。雲間から差す陽光のように、あるいはスポットライトのように、前を歩く男を照らしている。
ただ足を進めているだけなのに舞台上の役者のように見えるのは、余裕綽々といった態度のせいだろうか。それとも、彼はいつでも「ギーヴ」を演じているのだろうか。
これに履き替えろ。そう言って立ち止まったギーヴに渡されたのは黒い運動靴だった。不思議に思いながらも指示通り履き替えると疑問が解ける。
「足跡、か」
仕掛けがしてあったのは靴底だった。滑り止めのために刻みがつけられているはずのそこには、シリコン製のシールのようなものが貼られ、靴痕の特徴を消していた。
「そうとも。意外と足跡から得られる情報は多いからな。サイズに歩幅、メーカー、擦り減り具合。これらが分かるだけで犯人像はかなり狭められる」
「全くよからぬ知恵に精通しているものだなぁ」
「まあ、長く生きていればそれなりに」
「同い年だろう」
イスファーンは不思議そうな顔をした。
廃工場を通り抜け、裏側に出ると、建物の陰に隠れるようにして一台の車が停めてあった。グレーのハイエース、フルスモークガラス付。明らかに「何かある」雰囲気を漂わせている。
「これ、大丈夫なやつか?」思わず問い質してしまった。
「フロントとそのサイドは透過率七〇未満だから、まあお前さん風に言えば『大丈夫なやつ』だ」
後ろも広いぞ、色々できる。彼はそう言いながらバックドアを開け放った。車内には軍手が二組、シャベル(イスファーンにはシャベルとスコップの違いがわからない。ギーヴはわかるのだろうか)が四本、苛性ソーダと書かれた袋がいくつも、工具が入っていると思しき頑丈そうなケースが置いてある。他にもいろいろあったが、何が入っているかわからない物ばかりだった。
もしも職質されたら、たけのこ掘りの道具だと言って、信じてもらえるだろうか。イスファーンはそんなことを考えていた。
二人とドラム缶と諸々を載せた車は走り出した。ハンドルを握るのはギーヴ、助手席に座っているのはイスファーン。「目的地」については既に伝えてあった。しばらくは特に会話もなく、ギーヴが口遊む歌とドラム缶の奏でる金属音をBGMに走行していた。
それは大きな交差点での信号待ちの間の出来事だった。
「っ! 突然なんだ!」
車内にイスファーンの怒号が響いた。肩をすくめて、ドアに寄れる精一杯まで身を捩らせている。
「少し、髪が濡れているなと思ってね」
「急に触るんじゃない!」
「雨は降っていなかったと思うが」
「吐いて汚れたのでシャワーを浴びた――なんだ」
そこでイスファーンは己に失望したような目を向ける男に気づいた。
「そこは嘘でも『おれのために』と言えばもう少し色気のある会話になるんだがなぁ」
「おれにそういうものを期待するんじゃない。だいたい、嘘を吐くのは得意ではないしお前のためにシャワーを浴びてくるなんてことはこれからも無い」
「さて、どうかな? 未来のことなんて誰にもわかりはしないさ」
ちょうどよく信号が変わったので会話はそこで終わった。
◇
車窓から見える景色が「見覚えのある」どころではなくなるにつれて、手足が冷えていくのをイスファーンは感じていた。罪を直視しなければならぬ時がすぐそこまで迫っている。気を落ち着かせようと深い呼吸を心がけるも、唇は乾くしどんどん手の震えは大きくなっていく。やがて車が停止したが、その頃には冷や汗で全身が湿っていた。
震える手をなんとか抑えながらシートベルトを外す。車を降りれば、イスファーンにとってはよく知った景色が彼らを迎えた。
「裏山」と呼んではいるがおそらく正式な山ではない。小高い丘に木が鬱蒼と生い茂っている。
「この裏山のどこに隠した?」
「ああ……そこに、石柱のような物があるだろう。あそこが一応入り口なんだが、そこの茂みを入って右側の木の裏に」
一本の太い木を指し示すイスファーン。
「それは重畳。それじゃあ行くか」
ギーヴは特に気負いする様子もなく歩きだした。
「重畳とはどういうことだ」
慌てて追いかける。
「山登りの必要がなくなって嬉しいってことさ」
湿った土のにおい。草を、落ち葉を踏みしめる音。それらは幼い自分が感じていたものとなんら変わりないのに、今のイスファーンの鼓動を速くさせている。
一歩、二歩。目的の木だけがくっきりと浮き出ているように見える。三歩、四歩。ひときわ太い木が目の前にやってくる。五歩。あとわずか、体をずらせば、幹にもたれかかるようにして座るそれが見えるだろう。
意を決して裏側を覗きこんだ。
最後に見たときと同じ姿勢のまま、男はそこにあった。
◇
同乗者の増えた車は見知らぬ道を走っている。てっきり廃工場に戻ると思っていたイスファーンは運転席を見た。
「? 工場に戻るんじゃないのか?」
「あそこは、ちょっと開放的すぎるんでね」
たしかに、窓も天井も開き放題ではあった。通りすがりにひょいっと覗き込まれた先で解体ショーを披露していたくはない。
しかし、何も訊かなかったイスファーンが悪いと言われてしまえばそれまでだが、何も言わずにすべて用意して連れまわすこの男も、たいがい意地が悪いというか、エゴイスティックというか。
普段であれば自分の予定通りにいかないことに腹が立っていたことだろう。それでも、腫れ物に触るようにそっと扱われるよりは、こちらの調子になどあわせず振り回されている方が、いまのイスファーンにとってはよっぽど楽だった。
思考を停止させることは一番いけないことだと何度も言われてきた。常に理性でもっておのれを律するべきである、と。けれども流れに身を委ねることのなんと楽なことか。
隣に座る男はおれを堕落させる悪魔かもしれない、戯れにそんなことを考えた。
助手席に座る人物は場を盛り上げようという気はないようで、質問を投げかけてからはただ置物のようにじっと前を見て座っている。なにか考えているようでもあったので黙っていたが、先ほどから鼻先をくすぐってくる柑橘のようなかすかな香りに、どうにも興味を抑えきれなかった。
「ところで、珍しい香りを纏っているな。香水とかそういったものは嫌いだとばかり思っていたが」
そう話しかけると、イスファーンは一瞬怪訝そうな顔をした。
「香り? なにも付けていな、いや、これか?」
二の腕あたりを顔に近づけて嗅ぐと、何事か思い当たる節があるらしい。
「これは兄の 芸室――書斎の虫干しを手伝っていたら付いたんだ」
「芸室とはまた古風な物言いだな、兄君は懐古趣味なのかな?」
「兄自身はそうでもない。だが、生まれが古い家だからな。いまだに虫除けになると言って、栞に 芸香の香り付けしたのを使うぐらいの」
「それはそれは。さぞや格式ある立派なお家でしょうなぁ」
ギーヴが揶揄っているのを隠そうともしない声音で言うと、イスファーンは窓の外を向いて
「…………嫌いな匂いだったら悪かったな」
とだけ言った。押しつぶされたように均されて抑揚のない声音。彼が家について深く語ることを避けているのはギーヴの目には明らかだった。いまだに兄以外の家族が会話に出たことはない。これはわけありかな、と思いながらもそれ以上踏み込んで問うことはしなかった。
「いや、爽やかでいい清涼剤じゃないか。男三人、いや二人とひとつの肉塊だけではむさくるしいと思っていたところさ」
それが別名を「ヘンルーダ」と言うことをギーヴは知っている。
それから十分程度で次の目的地に到着した。来たのは市内の中心からは少し離れた、空き地や空き家が目立つ地区だった。雑草の生い茂る空き地に三棟の二階建てプレハブ小屋が放置されている。
三棟あるうちの左端が一番ひろく、雑木林の陰で道路から見えにくい位置になっていたので、そこを使うことにした。車を停め、ドラム缶などの道具を先に降ろし、それから男を降ろす。プレハブ小屋もまた埃っぽかったが、何もないという点でとても片付いていたと言える。
ギーヴが男を運ぶのを嫌がったので、イスファーンがその役を果たすことになった。
意識のない体はぐんにゃりとして重く、運びにくい。
おもい、おもい、おもい。
それだけをただひたすらに考えた。においだとか、温度だとか、形だとか、そういうものを感じたくなかった。重くて運びにくい物を運んでいる、ただそれだけだとおのれに言い聞かせて背中に引き上げた。
とてつもなく長く感じたプレハブ小屋までの道のりを踏破し、イスファーンは床に男を転がした。
階段を下りてきたギーヴは窓と扉を確かめていたらしい。どこもぴっちりと施錠され、完全に密閉された空間ができあがった。空気が体全体に、重くのしかかっているような気がする。
そうしてとうとうその時がやってきた。
ギーヴが工具箱からノコギリを取り出す。
「お前がやったんだ、お前が率先して始末をつけるべきだろう?」
まるで試すかのように挑戦的な顔をしていた。
いとも容易くそれはおれの手に渡ってしまう。
男の胴体の脇でゆっくりと膝を折った。刃を手首に押しつける。押し返してくる肉の弾力。視線を手首から腕をたどって肩へ。そのさらに上には見知った顔が乗っかっている。血に塗れてはいるが、たしかに知っている、数時間前に言葉も交わしたその人を、まるで食肉を切るみたいに…………。
呼吸は早く浅くなっていた。
顔を見てはいけない、これは肉だ、肉だ、ただの肉、豚や牛を切るのとかわらない、パーツだけを見ろ! 握った物を押しつけて、前後にひたすら動かす、ただそれだけでいい。
早鐘を打つ心臓が、手にもあるみたいだった。ノコギリを握る手に力が入っているのかわからない。体中が心臓になったように振動している気さえする。目の前が霞んで、歪んで。
ノコギリを握る手はぶるぶると震え、今にも取り落としそうだった。顔は歪み、背中にも力が入っているのがわかる。
余分な力を入れていたら人は斬れないのに。いや、人が人を斬れなくなったからこそ「ノコギリ」なんていう凶悪な形の物体ができあがったのだろう。イスファーンの額や首筋に、いくつも汗が浮かんでは流れている。いくら残暑といっても、今はもう陽も落ちて肌寒いほどだ。理由は想像できる。
殺人は禁忌であるという教えは、教育されるまでもなく、物心つくまでにあらゆる媒体によって刷り込まれる。ニュースでは殺人は事件として取り上げられる。戦争は忌むべき物であり、尊い命を奪う悪である。どんな事情があるにせよ犯人は探されて罪を償わなければならない。もはやこの世界に勇将は必要とされず英雄は存在意義を失くした。
そんな世界で真っ当に生まれ育ったこの男は、きちんとした倫理観を備えてしまった。かつてのように武勇を誇ることもなく、たったひとり、おのれの感情を害した人間を殺めたことに罪悪感を覚えている。そうして、立派なイスファーンは人の形をしたものをバラバラにすることもできないのだ。
一度はぐっと押しつけた刃を、イスファーンは手放そうとしていた。
「む、無理だ、」
顔をあげた拍子に汗が鼻先から地面へ散った。
「やっぱりおれにはできない! なぁ、埋めよう、穴を掘って、そこに投げ込むだけならできる、やるよ。でも切るなんて、無理だ!」
「だが、そうは言ってもこれは、」
そう言いながらギーヴは靴のつま先で肉付きの良い腹のあたりをつついた。
「これは、お前にとってなんの思い入れもない。そうだろう。なにをそんなに気にする必要がある?」
なんの感情も読み取れない男の顔に息を飲んだ。いや、微笑んでいるようにも見える顔だった。
優しげに、諭すように、なんでもないように、「人を切り刻め」と。目の前の男はそう言ったのだ。
でも、だって。混乱の中でイスファーンは思う。
だってこれは人間だ、人間は人間を殺してはいけないんだ。それを許したら、おれも殺されることを許さないといけない。兄さんが殺されることも納得しなきゃいけないじゃないか。おれは赦せそうもないもないよ、そんなこと。想像したくもない。こいつを、ば、ばらばらに、してしまったら、ほんとうにおれは……。
うつむいて、白む狭い視界の中で滴った汗の痕を見つめていると、驚いたようなギーヴの声が降ってきた。
「おい、どうやらこの肉、生きているようだぞ」
生きているのであればそれは肉ではなく人間と呼称すべきなのだが、その点を除けばギーヴの言葉は正しかった。男のまぶたがぴくぴくと動いている。
「……………………え、」
聞き間違いをまず疑った。それから、あまりのストレスに、脳が都合の良い幻覚を見せたのかと思った。
「おれは、殺してなかったのか……?」
「感傷に浸ってる場合じゃないぞ! 生きてるってことは耳も聞こえるし目も見えるんだからな! 目隠しが必要だな、あとは、おい、こいつが覚醒する前にノコギリを片付けろ、ドラム缶の中でいいから!」
人を殺した、と告白した時よりも慌てた様子のギーヴがなんだかおかしくてイスファーンは笑った。気が抜けたのもあるだろう。
「はは、ほんとうに、慌てていてもよく喋るなぁ。少し舌が長すぎるんじゃないか? おれが刻みなおしてやろうか?」
イスファーンはへにゃりとした下手くそな笑顔で、いまだ持ったままのノコギリを掲げてみせた。
さっきまで切れないってべそべそ泣いてたくせに!
胸中で叫んだのは、忌々しさと懐かしさでわけがわからなくなっているギーヴだった。
『その長すぎる舌を、適当な寸法になおしてくれよう!』
『いまおれの前にいるのは、ルシタニア人ではなくてきさまだ!』
いまでも昨日のことのように思い出せる。それほどに鮮烈な記憶だ。何度も再生させた。
あの時、軍師どのには適当なやつに喧嘩を吹っかけて、軍を出ていくふりをしてくれとだけ頼まれていた。だれにだって文句をつけて吹っかけることはできたが、ギーヴがその相手に選んだのはイスファーンだった。
「 狼に育てられた者」。
王都で見事な――あのギーヴが心から矢を放ってやりたいと思った程には見事な――覚悟と散り際を見せた男が、手塩にかけて育てたという人物。あの万騎長の弟に相応しいだけの器量を持ち合わせているのか、試してみたいと思ったのだった。
果たして、ギーヴは若き狼の予想以上の烈しさに驚くことになる。もとの技倆に加えて、怒りも加勢したかもしれない。だがそれでも、剣だけでなく脚や腕も使い、一瞬であってもギーヴから武器を手放せさせたのだ。その確かな力量と兄への想いの深さとを、認めぬわけにはいかなかった。
多少油断していたことは否めない。だがそれにしても自身と互角程度にやり合ってみせたイスファーンに、殺気を浴びせかけられたことに対する不快感など欠片も持ち合わせず、むしろ愉快な気持ちでさえあった。
見ているか、天におられるだろう兄君よ! 弟御はあんなにも小気味好い剣の使い手だ。ご安心めされよ、このギーヴを少なからず感嘆させるほどには良い男に成長しているぞ!
周囲にひとのいないのをいいことに、天に向かって哄笑した。
「 っはは、あははははっ、 ふっ、相変わらずじゃないか、」
突然笑いはじめたギーヴに目を丸くするイスファーン。とうとう本当におかしくなってしまったのだろうか、そう声に出さずとも訝しんでいるのがよくわかる表情でギーヴを見つめている。
「感傷に浸る時間などないと言ったのはお前だろう……」
止まらぬ笑いに思わず呟くと、ようやく呼吸が落ち着いた。
「あっはは、はー、いや悪い、どうにも可笑しくて……」
そう言って、二つほど呼吸をしたのちには既に考えがまとまっているようだった。
「これから電話をかけるから、その間にこいつを適当に目隠しして縛り上げといてくれ。その箱に色々入ってる。ここに持ってきた荷物は後で回収するから今は置いていく」
「わかった」
切り替えの速さと矢継ぎ早な指示に驚きながら頷くと、ギーヴは折りたたみ式の携帯電話を取り出してどこかに繋いだ。結局なにに笑っていたのだろうか。
示された箱にはガムテープやビニールテープ、太さや材料の違う各種縄類、薄手の包帯から帆布のテーブルランナーのようなものまで一緒くたに入っていて、「ありとあらゆる縛るための物を集めました」といった調子だった。少し考えて、イスファーンは目隠しになりそうな厚手の布と麻縄を選んだ。その間にも誰かと会話するギーヴの声が聞こえる。
『…………ああ、おれだ。……そう頻繁に連絡することがあってもなぁ…………今日、頼めるか?…………うん、場所は後で送る、…………ああ、気をつけてな、頼むぞ、それじゃ』
手を動かしながらも耳は声のする方へ傾いている。声、といえば猿轡は必要だろうか。いや、また死なれても困る……。思索しているイスファーンに、電話を終えたギーヴが歩み寄る。顔をあげたイスファーンが尋ねた。
「いまのはどこに?」
「盗み聞きか? 悪い子だなぁ」
「そういうことではなく、」
「まあまあ、悪いようにはならないから」
与えた任務が不足なく遂行されていると判断したのか、ギーヴはイスファーンを立たせた。
答えを聞いていない、そう思うも背中を押され、強引に出口に向かわされる。鈍い銀色の扉を目前にした時、イスファーンが声をあげた。
「あっ、ドラム缶は持ってかえらせてくれ」
「なぜ?」
「ゴエモン風呂するって言ったのに家になかったらおかしいだろう!」
「……お好きにどうぞ」
プレハブ小屋を出ると、日はとうに落ちて深い闇があたりを覆っていた。ひとけの少ないために街灯もまばらだ。車の輪郭を浮き上がらせるように、ふちが月の光を僅かに反射している。月明かりを頼りにドラム缶を積み込み、二人は車に乗り込んだ。
後 奏
ここに来る時よりも車内は静かだった。いくつか荷物を置いてきたからかもしれないし、ギーヴが歌っていないからかもしれない。
なんといっても事の起こりからして、盛大な勘違いだったのだから、イスファーンの方からは口を開く気になれなかった。加えて、さきほど情けない様を見せたことに対するわずかな羞恥のようなものもある。ギーヴの方でも何か考えている風だったので、これ幸いと無言を貫いていた。
「お前は少し前に、自身を人でなしと言ったが、おれは狂人かもしれないぞ」
突然口を開いたかと思うと、ギーヴはそんなことを言った。
「まあ、犯罪者を部屋に招き入れたりいきなり笑いだしたりした時はおかしなやつだと思ったが」
「…………おれはお前をよぉく知っているよ、イスファーン。前の人生では、なかなか愉快なことにお前とおれは大の仲良し、親友だったんだ。それよりもずっと前、恋人だったこともあった」
月に照らされた顔はこちらを向いてはいなかったが、それでも真剣な表情をしていることは判別できた。
「は? なにを、言ってる? おれはお前と友人だったことなんてないぞ、たまたま授業が一緒だっただけだ」
「今回のお前は信じないタイプかな。信じてくれるやつもいたんだが」
「そんなこと、」
「証拠が欲しい? なら教えてやろう。騙していて悪かったが、同じ講義を受けていたことはないよ」
まさか真に受けるとは思わなかったが、と続ける声はイスファーンの耳に入らない。彼は絶句していた。声はまだ続いている。本来なら心地良いはずの深みのある美声は、しかしイスファーンを混乱の渦に叩き落とすために使われていた。
「お兄さんは元気かい? 最初はたしか三六だったなあ……ん? それこそ、もうじきそんな歳じゃないか。なにかあるかもしれないぜ、気をつけてやれよ」
ほんとうに、何を言っているのかまるでわからなかった。
だが、しかしところがにもかかわらず。確かに兄の年齢はもうじき三六歳になる。今日の会話に兄を登場させはした、したがしかし、年が十四も離れていることなど口にした覚えがない。なぜ知っているのだ、まさか……本当に?
「なあ、何でお前、おれの前に現れた? 今回はまったく手出ししないつもりでいたんだがなぁ」
豊かな声は続いている。
ああ、何を言っているのか、何もわからないけど、それだけは答えられるよ。なんでもなにも、
「……言っただろう、顔が思い浮かんだからって」
ほんとうに、ただそれだけだったのだ。
◇
車はイスファーンの家に近いとも遠いとも言えない場所で停まった。ほどよく人通りが少なく、ほどよく見向きもされない程度に薄暗い場所。
ギーヴの運転は丁寧と評して差し支えなかった。発進も停止もゆるやかで安心感があり、ときおり聞こえてくる異国のものと思しき歌も、知らないながらに彼によく似合っていた。わけのわからない事を言う運転手がいたが、非日常の塊みたいな今日の中では不思議と力の抜ける時間、空間だった。
だからこそ、降りる前にこんなことを聞いてしまったのだろう。
「もしも、おれが捕まったら面会にくる?」
その質問は意外だったのだろうか。ギーヴは一瞬、表情を作り忘れたみたいに感情を顔から全部削ぎ落として、それからすぐさまささやかに口の端を上げてみせた。
「お前に檻の中は似合わないぜ、狼くん」
その声が嘘みたいに臈たけた雰囲気を漂わせたやわらかなものだったので、イスファーンは思わず気圧されたように黙りこむ。それは水で磨かれたように滑らかで、今まで聞いたことのないほど透き通っていた。何かを察したのか、ギーヴはすぐさま空気を切り替えた。
「まぁ一度くらいなら吠え面を笑いに行ってやってもいいが、おれも暇じゃないんでね」
「人を動物扱いするな」
イスファーンは車を降りた。
◇
あれからどのようにして自室に辿り着いたのかは定かではない。おそらく誰とも会わなかっただろうとは思う。
ベッドに身を投げ出し、異常な一日が平穏のうちに終わろうとしている不思議を思った。いつものように寝て、起きたら当然のように次の朝が来ていて、いつもの道を通って大学に向かうのだろう。そんなことを考えていたら腹の虫が鳴いた。緊張の糸、その最後の一本が自室という個人的で閉ざされた安寧の地に横たわったことによって切れたらしい。思えば出された課題も手つかずのままだった。
イスファーンがあんなにも非日常を過ごしていたというのに、日常がおかまいなしにまわりを流れている。おおきなうねりの中に落とされた小さな石ころの気分だった。かといって自身がなにもできない小石ではないことも知ってしまった。
今回は運良く殺していなかったが、たしかに「あの時」、イスファーンはほんものの殺意を持っていた。……いや、それは嘘だ。そのような、ヒトに向ける上等な感情なんかじゃなかった。ただひたすらに嫌悪感の原因を取り除こうと、そのために腕を振り下ろした。おれは、虫かなにかに向けるような気持ちで、人を、殺せてしまうかもしれないのだ。
自身に潜む獣性のあまりのグロテスクさに身震いし、寝返りをうって壁側を向いた。この壁を挟んで隣には兄の芸室がある。
芸室といえば、かすかな移り香に気付いてみせたあの男は、鼻が随分とよかったのだと、今更ながらに気づく。今まで、どんなに芸室に入り浸っても誰からも香りを指摘されたことはなかったのに。
口がよく回って、悪知恵がはたらいて、鼻がよい。歌がうまくて、声も悪くない、顔はいっとう良い。しかし前世の記憶があるという、おかしな男。変なやつと関わりを持ってしまった。いろいろな思いはあれど、総括するとこれに尽きる。
日常に溶けこんだ異物。また会うような、二度と会わないような、相反する予感がある。思考が支離滅裂なのは眠気のせいか。呼吸が深くゆったりとしたものになり、無意識のうちにまぶたが降りていた。
「あぁ、ドラム缶、忘れたな………」
声になっていたかは誰も知らない。
◇
イスファーンが寝台の上で微睡んでいるころ、ギーヴは自室から月を見上げていた。リビングにはそれなりに見えるよう、家具や小物を置いていたが、自室に物はほとんどない。床に厚手の絨毯とサイドテーブル、それからいくつかのクッション。それだけだ。
時間をかけて淹れたコーヒーをテーブルに置いて、クッションを壁に立てかけた。電気は点けない。ひんやりとした壁に背中を預けて仄白く輝く月輪を見ている。
考えているのは奇妙に濃密だった数時間のこと。
イスファーンに告げたように、今回はこちらから手出しする予定はまったく無かった。だけども、彼がなぜだか自分を頼り、かつて見せたことのない脆さを、いま惜しげもなく晒し出しているのだと理解した瞬間、これはこれで、と思ったのだ。
あれは簡単に折れるようなものではなかった。あれはおれに弱さを見せようとはしなかった。たったひとつ、「兄」という弱さを剥き出しにしていたが、それは唯一であるが故に諸刃の剣たりえていたのだ。
兄の名を出して挑発すれば口を開くのと同時に剣を鞘走らせていた。そして烈気に満ちた必殺の斬撃は敵を屠る。それゆえ諸刃の剣なのだ。幾度出会ってもイスファーンはそうだった。しかしそこを突くばかりでは芸が無いではないか。
だが、それ以外にこれといった弱みは見当たらない。だからこちらが無造作を装って傷口を開いてやるのだ。そうして暴かれた結果、歯を食いしばりながら、ようやく、ころりと一粒転がしてみせる。もしかしたらそれは、ギーヴとの関係だけにおけるものかもしれない。他の人物には容易く見せていたのかもしれない。だけど、このおれが他と同列だなんて まっぴらごめん。それなら刃を交えている方がまだマシだとさえ思う。思っていた。
今回の件を経て、彼の中でギーヴは非日常の象徴となっていることだろう。平和な日常に戻って生活することは許そうじゃないか。だが、おれの姿を見て己の罪を思い出せばいいと思うし、罪と共におれを思い出せばいい。いや、思い出せ。ただの頼れる人になど、このおれがなってやるものか。
冷えきったコーヒーは酸味ばかり目立っていたが気にならない。そんなことよりも明日以降の楽しみができたことに気を取られていた。
あいつを檻の中になんか入れてなるものか、あんなところに押し込めてしまっては勿体ない。
あれはおれのものだ。
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