むかしむかしあるところに - 3/3

春。そう呼ぶにはいささか早い。だが、例年よりも早い雪溶けが、ここ、ナクシェ=ルスダムに先走った春を届けていた。
暦のうえでは未だ冬。けれども、光景はすでに春。
このちぐはぐな状態に、しかし住民たちは気づく暇がなかった。
「おい! あそこ!」
山の雪もすでに大部分が溶け、地面を潤し、植物が山肌を彩色している。
そんな春の長閑な空気に似合わず、険しい表情をした男たちがあちこちに散開し、なにかを探していた。
声を上げた男のもとへ、近くにいた数人が集まる。
男が指差すのは、向かいの崖を下った先の、わずかに開けた平らな地面。
いや、地面ではない。目を凝らすと、たしかに自然でも植物でもないものがそこにある。
噎せかえりそうなほどの植物の匂い。多湿。地面は苔生している。半ば朽ちた木が倒れており、そこに背を持たせかけた腐肉のかたまりがひとつ。
男はそれを指差しているのだった。
縄を腰に巻いた男が、斜面を慎重に降りていく。
そうして彼は見る。腐肉が、かつて人間であったということを。
そしてまた彼は知る。その見覚えのある衣服が、誰のものであったのかを。

 

「領主様!!」
足を縺れさせながら馬上の人物に駆け寄る男がいた。服の至るところを泥で汚し、頭には草葉を乗せている。一身に「慌てています」と表現している男を眺め下ろして、領主と呼ばれた男は口を開いた。
「騒がしいな」
「申しわけ、いえ、それどころじゃないんです。イスファーン様は今どちらに?」
話しかけられてなお、手綱を操る男は馬の脚を止めない。仕方なく男は早足で追い縋った。
「さぁ、知らんな。ここ二、三日は顔を見ておらん」
「っ……」
「それが山での騒ぎと関係あるのか?」
「遺体が発見されたのです」
「……」
ようやく、馬の足が止まった。ここぞとばかりに男は言い募る。
「損壊がひどく、特に顔はぐちゃぐちゃで、誰だかしかとは判別できぬのですが。遺体の身につけている服がイスファーン様のものではないかと言う者があるのです」
「……」
「ですから、」
「私は知らぬ」
「え?」
また馬の足が動き出す。耳を疑う発言に、男は立ち尽くした。ただ呆然と、湿った土に蹄鉄の痕が刻まれていくのを見ているしかできなかった。

朝から男たちが山に入っていたのは人探しのためだった。
──アルワキール卿。
王都から大事な報せを携えてやってきたという男。真夜中に領主の館に駆け込んだ男。
どうせ行く宛も無いんだと語った男を、それなら畑仕事を手伝えと領民たちは引き留めた。ひとつの季節を共に過ごし、いまや誰もがその姿を、実直な性格を知っていた。そのかれの姿が見えないのだと、村の男を集めた家宰が言った。
「来たときの馬はある。荷物も部屋に。姿だけがなくなっているのだ」
男たちは顔を見合わせて、うちには来てないぞ、おらんとこもだ、などと口々に言い合う。「姿を見た者は?」という家宰の問いに、誰もが首を横に振った。
山で遭難しているのでは、と誰かが声を上げた。途端、場がざわつく。山裾に長年住まうからこそ、山の恐ろしさを皆知っていた。可能性はある、と頷きあって朝から山に入り、そうして見つけたのが件の死体であった。

「こちらが、その、イスファーン様であるかご確認いただきたいのですが」
消え入るような声で家宰は領主に向かって声をかけた。
石敷きの広場の周りには多くの人間が集まっていた。瓶底の澱のように薄濁りのする雰囲気とは裏腹に、午後の陽光が晴れやかに差し込んでいる。
その光は石畳に横たえられた死体にも平等に注いでいた。
事の顛末を見届けようと押しかけた村人は何が起こっているのかと前へにじり寄り、一方で悲惨の体現とも言うべき肉塊から少しでも離れようと後退りする者があり、押し合いへし合い、小さな騒ぎになっていた。

その聴衆なのか野次馬なのか、とにかく背後の人垣から隔離されたような広場の中心で、家宰は主人に再び声をかけた。
「この人物がイスファーン様であるか、私でも判断できないのです。もはや、父君である貴方様にしか」
冷たい風が吹き抜けた。草葉の青い匂いを纏ったそれは、死体にかけられていた布をいたずらに引き剥がしていく。
ああっ、と言う者があった。なんと、と絶句する者もいた。言葉なく頽れる者、嘔吐を堪えきれず石畳を汚す者。とにかく見るに堪えない惨状であることは、その反応を見ればわかるだろう。
「顔」の定義とはいかなるものであろうか。目・鼻・口が付いていること? であればこの死体に顔はなかった。片方の眼球は抜け落ち、昏い眼窩に棲みついた蛆がこちらを覗く。もう一方も潰れており、なにやら嫌な臭いのする汁が伝っている。鼻は無惨にこそげ、わずかな肉の突起と成り下がっている。額や頬であった部分は肉が裂け、赤黒く染まっていない肌を探す方が難しい。
家宰も、もはや何度目になるかわからぬ吐き気を堪えながら、膝をついて捲れ上がった布を戻した。
「どうなのですか……?」
男の重たげな瞼が一度降り、視線が死体の上を一巡した。何かを見つけたように、一度だけその動きが固定された。そしてもう一度瞬きをして鼻からゆっくりと息を吐き出す。力なく垂れた頬肉がゆるゆると持ち上がった。
水を打ったような静寂。
「……これなるは我が子イスファーンである。生命の灯火消えし今、ただちに葬儀を執り行いたい」
一瞬の間を置いて、堪えきれずに溢れた囁き声が時と共にどんどんと増えていく。啜り泣く声も漏れ聞こえてきた。
イスファーンは、慕われていた。
出生に纏わる騒動は領内にいれば自ずと知れる。当初から領民はイスファーンとその母親に同情的であった。兄を一心に慕い後をついてまわる幼児を見、だれもが頬を緩めた。兄の留守時には風下に立たされる少年の面倒を見、時には同じ食卓を囲んでいた領民もいたようである。
兄だけに心を開いていた幼児は、次第に村人にも心を開くようになっていた。懐けば屈託なく笑い、走り寄ってくる子供を、邪険にできるはずもなかった。
年長けて、兄の背中を追うように逞しく育った彼は村人に混じり害獣の駆除や賊の撃退など、多くの功績をあげた。将来の楽しみな若人だと領民の誰しもが噂していた。領主の館以外で、と付け加えねばならないが。
もちろん家宰とて彼が好青年であることはよく知っている。だが、主人の意に沿い余程のことがない限り放置を決め込んでいた。その結果が、これだ。
イスファーンは、慕われていた。
こんなことでまざまざと思い知りたくはなかったが。
いよいよ哀号の声は大きくなり、怒声も混じり始めた。その矛先は原因の追及、解明をいっさい口にしなかった男へと向かう。
消えた男と死んだ男。因果関係を疑うなと言う方が無理な話である。
とはいえ雇い主の意向には従わねばならない。応援として邸から呼ばれた召使いたちは、村の人々を半ば追い出すようにして広場からお帰り願った。そしてまた自らの仕事に戻っていく。
広場には二人だけが残った。正確に言うならば二人と、死体が一つ。
喧騒が遠くなると一層風が冷たくなる気がする。知らず肩をすくめた家宰の名を呼ぶ者があった。領主であり雇い主である男だ。
もっと近くへ、というようにもう一度名前を囁かれる。家宰は側へ寄り、耳を寄せた。

──アルワキール卿はここにいる。

「は……今、なんと」
理解ができずに、そう返すのがやっとだった。「ここ」とはどこを指すのか。なぜ今その発言なのか。説明を待ち望んで、家宰はひたすらに主人の顔を見返す。
男は足下の死体を爪先でつついた。
「これは、あれではないと言うたのだ」
領主は必要のない限り、イスファーンの名前を呼ばない。が、ここで出る代名詞として相応しいのは彼しかいない。
「どういう、ことですか」
「この死体はアルワキール卿のものだ。あれは生きている。どこにいるのかは知らぬが」
「では……なぜ」
「すでに一度死んだようなものだ。二度目があってもさして変わりないだろう」
ああ、葬儀はあれとして行う。最低限でいい。時間を無駄にしたとでも言いたそうな顔をして、男はそう言い切った。そのままくるりと背を向けて歩き出す。
「あ、貴方には情というものが無いのですか⁉︎」
やり切れなさに、家宰はつい声を荒げた。
「せめてお探しになったらどうです?」
「あれに対する情、か。あるならばあの一度目を見過ごすはずがない」
立ち止まった男は顔を上げないままそう呟いた。
「無用な波風を立てたくないのだ」
わかってくれ、と念を押すようにゆっくりと吐き出されたため息には、春に似合わない愁傷が多分に含まれていた。一昨年、正室を亡くしてから精彩を欠いていたが、いよいよ一気に老け込んだように見える。
気づけばこの数日で白髪が随分と増していた。
長い付き合いである。それこそ、正室と妾の諍いを知る程度には。ゆえに主人の考えていることは僅かにではあるが推し量ることができた。
王都からの使者が謎の死を遂げ、それと同時期に姿を消した男、となれば当然疑いはイスファーンにかかるだろう。かれと関わりを持ちたくない保守的な主人は、使者は役目を終えて帰ったことにし、ついでにイスファーンを厄介払いしたいのだ。それで丸く収まるのだとこの男は信じているのだ。
「あれをここにとどめる軛は、唯一、シャプールであったということだ」
そう独りごちた小柄な背中は、重い足取りで邸の中に消えていった。

そこでようやく、家宰もことを理解しはじめた。アルワキールとイスファーンの間の問題ではなかったのだ。むしろアルワキールが携えた報せこそが問題であった。
そこまで理解しながらなぜ対話を放棄したのか。家宰には一欠片も理解ができない。
これは、父親らしいことの一つもしなかった彼の、ただ一度の施しのつもりだったのだろうか。
この家から解き放つ。代わりにその名を、その生を剥奪する。
あまりにも一方的で、取り返しのつかない方法で幕切れを迎えた、父子の交わりだった。
家宰は言葉を失い、イスファーンと名付けられた死体の側で、ただ立ち尽くしていた。

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