誰もが寝静まった夜更け、静寂を蹴破る馬蹄の響きが轟いた。
ただ一騎、躊躇いなく道を逸れ、小川を飛び越え、畑を突っ切って向かった先はここ、ナクシェ=ルスダムの領主の館である。
鞍から滑り降りた男は堅牢な門に拳を乱暴に叩きつけた。
「王都からの早馬だ! 頼む、開けてくれ!」
同じ文言を二、三度繰り返したところで、門の脇の木戸の方から音がした。人ひとり通るのがやっと程度の小さな扉には、上部に格子がとりつけられており、そこから揺らめく灯りに照らされた顔がのぞいている。
「用件をお伝えください。お取り次ぎはその後です」
「こんなところで言えるものか。悪いが、とにかくご当主に会わせてくれ、できるだけ、はやく!」
忙しなく足踏みしながら急かす男をじっとりとした目で眺め、使用人は小さく頷いた。
「……しばしお待ちを」
「待つ、待つから早くしてくれ、でないと今にもこの門を蹴破ってしまいそうだ!」
「承りました」
足音と共に灯りが遠ざかり、静寂が男の足元へ押し寄せる。男はしきりに左右を見渡しては髪を撫でつけるように頭に両手をやり、ばさばさと髪を乱しては顔を覆って、はっとして拳を握る。いかにも落ち着きが無い。
男は王都エクバターナからほとんど不眠不休でこの地にやってきた。
なんとしても、この館に住まう者に知らせなくてはならない報を携えている。
本来、早馬で報せを届ける使者は彼の役割ではない。だが、ひとつにはその役割をする者がいなくなってしまったこと、そして人材を選ぶ余裕がなかったこと、なにより男自身がそれを望んだために、三日ほど寝る間を惜しんでナクシェ=ルスダムに馬を走らせた。
ナクシェ=ルスダムは一言で表せば風光明媚な土地だ。山裾に広がるなだらかな土地は農耕をするのに適している。冬に降り積もる雪のお陰で春が近くなれば冷たい清水が小川を流れ、秋には山が紅葉に染まる。
これといった特産物があるわけではなく、人口の多い大都市でも交易で賑わう商業都市でもなく、言ってしまえば田舎だった。それでもこの土地が男にとって特別なのは──
「お待たせしました。今そちらの門を開けますので、」
「いい!」
男は声を張った。何事かと目を丸くしている使用人に、
「ここからでいい、急ぎなんだ」
と手を振る。
「では」
がこ、とかんぬきが抜かれる音の後、軋んだ音を上げて木戸が開かれる。
早足で歩く使用人の後に続いて応接間に足を踏み入れると、そこには二人の男が待っていた。
当主らしき人物と、その傍らに控える青年。どちらも視線からは警戒心が滲んでいる。
特に青年からは隠しもせず一挙手一投足を観察されており、男の首裏を汗が滑り落ちた。青年の剣がいつでも抜ける位置にあることを見、ごくりと唾を飲む。
当主は青年に較べやや小柄で、円い顔、顎には白髪混じりの髭を生やしている。不意の、しかも深夜の来客を不快に思いつつも、何事があったのかと不安を隠しきれない表情をしていた。
「それで」
整えられた顎髭が上下する。
「急ぎとのことだが。このような夜更けに聞く価値のあるものだろうね」
これからお伝えせねばならないことを思って手が僅かに震える。押し隠すように指を握り込み、息を吸った。
「エクバターナより参りました、アルワキールと申します。……軍では。パルス軍では、かつてシャプール様の下で千騎長を務めておりました」
絨毯に片膝をついて名乗る。シャプールの名前を出すと二人の肩の強張りが一瞬弛んだ。だが、その配下がこのように不躾な訪問をした理由について、まだ知らされていないことに思い至ったのだろう。すぐさま視線が厳しさを取り戻す。ふたりの表情からして、良い知らせなどではないと察されているのがわかる。
「それで」
最前と同じ言葉を当主が口にした。
「訊かれたことに端的に答えよ。要件は?」
やはり親子なのだ、という実感に唇が戦慄く。その言葉を幾度も耳にした。ここではない。ここには初めて来た。軍だ。軍で、別の人物の口からまったく同じ言葉を聞いた。
「過日の戦にて、シャプール様は討死、なさいました」
途端、視線が大きくぶれる。
頬がじんじんと熱を持っている。男は緻密に編まれた絨毯に尻をついていた。
当主の傍らにいた青年が肩で大きく息をしている。荒い呼吸に紛れて殺意が漏れるのを押しとどめでもするように歯を食いしばり、目を見開いている。
振り抜かれた腕は、それでも男にとって反応不可能なわけではなかった。これでも軍職であるので軌道は見えていた。つまり、わざと殴られたのである。
とはいえ、一切の躊躇いなく、本気で殴られたことには驚いたし、今までで五指に入るくらいには痛む。もしかしたら歯の一、二本は折れているかもしれない。そして、反応が可能とはいえど刃を交えて勝つことができるかどうかはまた別の問題であった。
けれども。命の危険と知らせを届けること。この二つを天秤にかけて、いとも容易く命を載せた側の皿が跳ね上がってしまったから、男はここにいるのだ。
占領されつつある戦火の王都を脱し、疲弊した身体を無理に鞍に乗せ、そうしてまで伝えたかった。いまさら首の心配などする暇のあるものか。
柔らかな足音がする。自身を光源から遮るように覆う影に気付いた男が顔を上げたのとほぼ同時、男の体は不自然に浮き上がっていた。青年が男の襟首を掴み上げているのだ。
「貴様! 嘘偽りを申すな!」
静止の声は無かった。代わりに短い問いが投げかけられる。
「アルワキール卿。今の言葉は」
「偽りなどではございませぬ」
男は眉根をきつく寄せながら答えた。
あの場にいなかった者がなんと言おうとも、この目で見たことは現実に起こったことである。
見なかったことで嘘になるというのなら、この目玉を抉るぐらいのことは躊躇わずにやってのけよう。そう思うほどに、信じたくないのは男も同じだったから、血を吐くような思いで続きの言葉を口にした。
「我がパルス軍がアトロパテネで敗北を喫したのち、勢いづいたルシタニア軍が王都に攻め寄せました」
──乱戦のさなか行方知れずとなっていたシャプールは、ルシタニア軍の虜囚となっていた。
それがわかったのは王都の城壁を取り囲むルシタニア軍の一団が、上半身を裸にされ、荒縄で乱雑に縛り上げられたシャプールを城壁の前まで引き出してきたからであった。
至る所から血を流し、健康的な肌色など見える面積の方が少なかった。尋問というより、痛めつけることこそを理由に痛めつけたのだろう。この瞬間のため、殺さない程度に。
指揮官らしき人物が何事かを喚いていた。それを遮ってシャプールが咆哮する。
凄絶な願いは確かに耳に届いた。
しかし聞き届けるのみで、叶えることはできなかった。
あの誇り高き戦士が、懇願しているというのに。みすみす敵に嬲られるのを見ているしかできないなんて。
あの場にいた誰もが同じ気持ちを抱いただろう。矢の残りを数える余裕もなくただがむしゃらに、我らは戦士に向かって弓を引いた。
「──そして、ついに何者かの矢が届いたのです」
いつの間にか襟首をつかむ手からは力が抜けていた。
「確かにこの目で見ました。額に突き立つ矢を。……苦しまずに逝かれたことでしょう」
地の底まで沈み込むような深い溜め息が奥から聞こえてくる。
男を殴り飛ばした手は、いまや力無く垂れ下がるばかりだ。
「その矢の……シャプールの命を奪った矢の持ち主はわかっているのか」
「私は、存じませぬ」
誰にとっても重く苦い沈黙のなか、身動ぎする者はいない。男は待った。
「……信じるしかあるまい……」
沈痛な表情もあらわに、顎髭を撫でつける当主がようやくぽつりと呟いた。
「イスファーン」
「……はい」
「かれを客室にお連れしなさい」
「はい」
男は一度深く平伏してから立ち上がった。
青年──イスファーンというらしい──は男と並ぶと背丈も体格も似ていた。歳はいくらか離れているだろうか。
かれは応接室の重い扉を閉めると「殴って申し訳なかった」と幾分ばつの悪そうな顔をして謝った。
さすがに「良い一発だった」などと言える空気ではなく、曖昧に「ああ」と頷く。気づけば熱を持って腫れ始めた頬を無意識にさすっていた。
青年は謝罪の後は沈鬱な顔をして黙々と先導に徹している。
突然あんな知らせを受けて気が動転しないわけがないのだ。それも、家族の……。そもそも先を行く彼はシャプールの親族なのか? 今更尋ねるのもおかしな気がして、男は首を捻りつつイスファーンの背を追った。
案内された客室で横になってみるも、男は寝付けずにいた。
極度の疲労のせいなのだろうか。それとも精神的なものなのか。とにかく寝る気にならず、また眠気もやってこないため、窓枠に腰を下ろして外を眺めてはや数刻。
開け放った窓の外から、狼の遠吠えがもの悲しい響きを纏って聞こえた。
つがいを喪いでもしたのだろうか。
それがいつまでも男の耳を覆うように、細く長くまとわりついて離れない。
この悲痛な叫びを、生涯忘れることはない気がした。
もうじき夜明けだろう。白みはじめた空が針葉樹の森を越えてやってくる。誰が死んでも何があっても変わらずに朝が来ることが無性に哀しくて、男は顔を伏せた。
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます