まぶたをおろせば心地良い喧騒が鼓膜を揺さぶる。
「クバード卿、先日お願いした書類はどうなっておられます」
「書類……? あぁあれか。終わったら持っていくと言ってあったはずだが」
欠伸まじりの返答に、苦さを多分に混ぜ込んだ響きの若い声が背後から届いた。
「放っておけばいつ終わるともしれぬからこうして声をかけているのです」
後ろ頭をがりがりと掻きながら振り向くと、予想通りの男がいた。万騎長のうちで最も年若く、そして最も苦労しているといわれている武人。代々パルス王家に仕える名家の出身で、それにふさわしくいつでもこざっぱりとした身なりをしている。特にその顎髭の美事さは有名なのだが──
「そんなことより、それ、いかがした」
笑いを堪えつつクバードが指で示す。
美しく切り整えられていたはずの髭は、いくぶん短くなっている。「短くなっている」程度ならまだましな方で、右頬に近いあたりはじゃっかん禿げているようにも見える。そのせいで左右が非対称になっており、美しいというより個性的というべき有様だった。
「そういえば、そのことについてもお話があります」
どうやら要らぬことを言ったようだ。足の向きを戻したい衝動に駆られながら、クバードはため息を吐いた。
先日、山賊を狩りにクバードとキシュワードの隊が出動した。山賊ごときに大げさな、と言う声もあったが、これは示威行為も兼ねていた。国境付近に行くついでに、雪溶けと共に蠢動し始めた隣国を牽制する目的だ。向こうも国境近くで軍の調練を行なっており、日に日に国境線に近づいて来ているというのが物見櫓からの報告であった。
「とはいえ、主目的は山賊退治。間違っても国境を越えたり、あまつさえちょっかいをかけることなどないように。よろしいですな」
「はいはい、承知いたしました」
最後の念押しは完全にクバードに視線を合わせていた。不安そうな顔のまま、卓上に広げていた地図をくるくると巻き取って退出するキシュワード。その背中を見送り、座ったままのクバードはううん、と唸って胸の前で腕を組む。
つまらない、というのが正直な気持ちだ。近頃は大きないくさも無く、手応えのあるやつと本気で打ちあう機会も無い。やっとお声がかかったかと思えば、せっかく国境くんだりまで行くというのに相手は山賊。ちょいと足を伸ばして軽く揶揄うのさえ駄目ときた。
無論、国境を軽んじているわけではない。辺境やら国境やら、とにかく『境』というのは異なるものとの最前線であるとクバードもわかっている。ただの鄙びた土地と侮るなかれ。それは国境警備から叩き上げでここまでのし上がったクバードだからこそ、余計に身に染みている。
「しかしなぁ……」
深くため息を吐いて足を卓に乗せる。
──出奔。
そんな言葉がちらりと脳裏をかすめる。当然本気ではない。ないがしかし、自分の身が自分で自由にできないというのは窮屈だ。それなら傭兵にでもなった方がいいのではないか。
軽く思案してみるがすぐ頭を振る。気の合わない雇い主に使われるのが癇に障って、すぐ辞めることになるのが目に見えるようだった。
またもため息を吐いて、見るともなしに部屋に積まれた木箱を眺めていると、扉を叩く音がする。続いて副官が顔を見せた。
「失礼いたします。間もなく出発です。そろそろご準備を」
「あいよ」
ひらりと手を振るとクバードは剣環を鳴らして立ち上がった。
結果としてクバードは「やらかした」。
大きな間違いをおかした、という意味ではなく、意図的にやってくれやがった、という意味で。
部屋にあった開発段階の焙烙玉をありったけ持ち込み、火を付けたそれを次々に敵陣目掛けて投げつけたのである。
爆発範囲が思ったより狭く、また春の湿度のおかげかそこまで延焼せずにすんだ。だが、まさかそんなものが投げ込まれると思っていなかったのは賊だけではない。キシュワード隊も寝耳に水ならぬ焙烙玉によってたいそう混乱をきたした。隊長の手腕によりそれはすぐ収まったのだが、彼はその代償として美髯の名を一時預けることとなってしまった。
「その節は、本当にすまん」
実のところ、クバード自身憂さ晴らしにしてはやりすぎたと思っていたので、この通りだ、と頭を下げるとふぅと鼻から息を抜きつつキシュワードが苦笑した。
「まぁ過ぎたことですしね。……この際すべて剃ってしまおうかとも思ったのですが」
だれだかわからないからやめてくれ、と本気で部下に止められたのだという。
「わっはっは」
「笑いごとではありませぬ」
「そうだぞクバード」
背後からかけられた声にぎょっとして振り向く。クバードに相対していたキシュワードはとっくに視界に捉えていたのだろう。軽く目礼をしている。
さっさと部屋に戻るべきだった。そう思いながらも、今更踵を返すのは逃げ帰るようで癪だった。
「そういうわりにご機嫌そうですなぁ、シャプール卿」
「話を逸らすな。今はおぬしの話だ」
「乗ってくださらないとはかわいげのないことで」
「やかましい。おぬしこそ反省してしおらしくしておれば少しはかわいげも見出せそうなものを」
ため息に続いて、小言が立て板に水とばかりに垂れ流される。都合の良い救いの手はないかとちらりと背後を見れば、ちょうど双刀将軍の外套が廊下の角に消えていくところである。面倒に巻き込まれる前にさっさと退避しやがったな。
「まあまあ、今回は若気のいたりというやつで、」
「そういうことは本人が言うものではなかろう……まったく、おぬしよりおれの弟の方がいくらか利口かもしれぬ」
やはりな、とクバードは胸中でつぶやく。
「今朝領地から手紙が届いたのだが」
そら来た。この男の機嫌のいい時はたいてい「異母弟」がらみと決まっている。そうでなければ洗濯物に皺が寄らず干せたとか、そういう細々した日常の一欠片か。最近では前者の割合が圧倒的に多い。
どういうわけだか、シャプールはクバードを「身内の話をしていい相手」と認識しているようだった。
いちばん怒号を浴びせられている自信がある。彼の麾下よりも、誰よりも。なのに、いっとうやわい部分を覗き見るのを許されている。そんな妙な距離感。
本人は気づいているのかいないのか、そういう時は決まってとんでもなく柔らかい貌をする。瞼を伏せて、眉間の皺を解いて、口もとには微かな笑みを浮かべる。ごくわずかの間、紅を刷いた頬がゆるりと持ち上がるさまを見ると、普段の岩のような顰めつらの持ち主と同一とは思えないほど。
とはいえやはりそれは寸時のことで、奇妙な面映さに耐えかねたクバードが口を開けばシャプールはすぐにもとの厳しさを取り戻す。
「それは将来有望なことですな」
「無論、至らぬ点はおぬし同様多いがな」
ほらこれだ。解放されるのはいつになることやら。
二つの影が並んで歩き出す。肩を並べるようになって数年経ったある日の春のことだった。
知らぬうちに、ひとりでに口角が上がっていた。
下ろしていたまぶたを引き上げる。手元で輪を描く水面には皺の増えたおのれの顔が映っていた。
その当時は愉快とは思っていなくとも、不意に思い出しては笑える。そういう些細な出来事の数々が、今更になって胸に刺さる。自分がやらかした馬鹿の青さに苦笑いするしかないとしても。
宝箱に詰め込んだ玩具のようなものだ。もうそれで遊ぶことはなくても、持っていることに意味がある。
酒気がもたらす心地良い微睡みに身を任せ、クバードは卓においた腕に顔を伏せた。
向かいに用意した杯はいつまで経っても乾かない。杯の持ち主は不帰の客となって久しい。
ただ鮮やかな過日の面影だけが眩さを増して輝きを放つ。あまりに眩くて、直視できないほど。
軋む木戸の音。隙間から細く伸びた光が幅を増やし、卓上のクバードに届く。
揺れる空気に男も気がつく。目を細め、ゆっくりと顔を持ち上げれば、外光を背に、見知った形が浮かんでいるような気がした。
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