自分が兄の背中を追うのは物心ついた時には当たり前であった。だから周りの人間がそれをどういう眼で見るかということについても、慣れていた。しかし、その視線に全く違う色が乗る日がやってくる。
その日。兄の額に風穴の開いた日。
イスファーンが兄を追うことに、別の意味が載せられた日である。
『万騎長シャプールの弟、イスファーン』
そう名乗ると、途端に何かしらの感情を込めた視線を送られる。その最たるものが、シャプールの俤を探すものだった。
シャプールは異母弟の存在を隠してはいなかったので、イスファーンの顔つきがシャプールに似ていないとわかると、その多くは諦めの顔をして興味を失う。やはりそんなものか、と。
イスファーン自身も昔は似ていないことに苛立ちを覚えていたから、その気持ちはよくわかる。とはいえあからさまに落胆の顔をされると流石に傷つくものはあるのだが。
今は、この身に流れる血が、兄の教えを受けて育ったという自負が、ひいては自分の存在そのものが兄あってのものだと思っているので、稚い子供のような駄々をこねることはない。
イスファーンの容貌に記憶と近いものがなくとも、諦めずに視線を送り続ける者も、少なくなかった。そういう者たちは、イスファーンの好んで身につける小物、髪留めだとか、外套、そういった物どもに兄を見出して、少し納得のいったような顔をする。
それでもまだイスファーンを見続ける者、というのも稀にいた。かれらは眺めるだけでは飽き足らず近づいてきて話しかけるのだ。そして最後には必ず「声が似ている」という。
「自分自身を見てほしい」とは微塵も思わない。判で押したように繰り返される行いに飽き飽きするということもなかった。イスファーンに何かを求めて視線を送る人々を見つめかえす度、兄がどれだけ慕われていたのかを思い知るのだから。ここにいるのが兄であれば、という歯痒さを感じないでもなかったが、それは誰にもどうしようもないことだったし、ある意味では兄自身が望んだ結果なのだ。それを覆すことはイスファーンにはできないし、誰かが覆そうものならイスファーンはそれを決して許さないだろう。
結局、幼稚な情緒なのかもしれない、とイスファーンは思う。自分の好きな人が、他の人にも好かれているのが嬉しい、という単純な心のありようだ。それでも構わなかった。誰が何をよすがにしようと、イスファーンには身の裡を流れる血が、胸に脳に刻み込まれた教えがあるのだから。
だからやけに見続けてくる人がいる、と気づくのにはやや時間がかかった。前述のように、「そういうつもりで」見てくる人というのは数多くいたので。
ふるいにかけられたように段々と数を減らしていく中、いつまでもその視線はイスファーンに向かっていた。
『ほんとうに、些細なことの端々に彼の方を感じるのです』
練兵場での言葉を聞いてすとんと納得した。きっと、兄とそれなりに直接関わりのあった人なのだろう。たとえば直属の麾下。あるいは生命を救われたとか。
きっとかれは「同じ機能」をイスファーンに求めているのだ。
将には機能がある。
将と兵士との差とは簡単に言えば、人を率いるか否かである。
軍において、兵士に求められるのは、命令どおりに動くことだ。一方で将に必要なのは、兵士に思考を捨てさせ、自らの手足のように動かす力である。手足を信じる力である。そしてまた、余計な思考を捨てさせるための、ある種のカリスマ性である。その力をもってして、将は軍といういきものを動かしている。いわば頭脳と身体の関係に近い。だから単に武勇が優れるだけでは良将とはなれない。
ゆえに、「将には機能がある」のだ。
いつまでもイスファーンを見つめ続ける人たちは、きっとイスファーンが思考の預け先として充分かどうかを検分し、期待しているのだ。イスファーンを通して、シャプールに預けたいと。
正直に言えば、とてつもない重みである。
イスファーンに軍での地位はまだない。大きな後ろ盾も、有効な人脈もなく、あるのはただ「シャプールの弟である」という自負だけ。
兄に較べればイスファーンという男がどれだけ未熟者なのか、おのれが一番わかっている。ゆえに、追い越せるとは思わないが、一歩でもその背中に近づきたかった。
重荷なら、最初から「ただのイスファーン」であると名乗ればいいだけの話である。それだけでその名に付随する、数多の命や判断を背負わなくて済む。
だが、イスファーンはどんなに重かろうと、兄の名を掲げ続けたいのだ。その名を歴史に刻みたい。多くの人間の記憶に刻みたい。
だから、今日も、その名を口にする。
「万騎長シャプールの弟、イスファーンである」と。
値踏みをされるだろう。期待外れだと落胆もされるだろう。
だがそれが自ら選択し背負った者の耐えるべき重みであると理解していた。なによりも重い、命というものを預かろうというのだから。かつまた、兄の名を掲げるのだから、軽いはずがない。それくらいとっくに覚悟しているのだった。
「それが口先だけの強がりでないとよいが」
ギーヴは、ヤザンと入れ替わるようにやってきた男に声をかけた。
「喜んで己に課したのだ、自ら手放すわけがなかろう。……だが、そうだな」
くっ、と細められた双眸が、この男にしては珍しく凄艶な輝きを放っていた。
「万が一にでも耐えきれなくなることがあれば、その時は誰の手も借りず、誰の目にも触れないところで舌を噛みちぎって死んでやるとも」
ひとかけらも溢さず、だれにも渡さず、兄の重みと共に沈んでいくのだ、と男は笑った。
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