明かりの灯る小さなおうち

 

   黄 昏

城壁がその身の影を長くながく延べている。色ガラスを目の前に翳したように、目に入るものすべてが駱駝色がかって、夢の中にいるような現実感の無さだった。それに拍車をかけるのが、大通りを歩む者の少なさだ。まだ日も落ちきらぬというのに、客を呼び込む酒場の主人の陽気な声も、酔漢たちの小競り合いやそれを囃し立てる野次も聞こえず、ここが金さえ出せばなんでも手に入るとまで謳われたエクバターナの市街なのかと疑う静かさ。
ギーヴはそんな大通りを一人歩いていた。数少ない通りを行く者はみな俯きがちで、どこからか乾いた咳こむ声だけが、肌に突き刺さる早春の冷たい風に乗って耳に届く。陰鬱な空気が漂っていた。

「おぬし、なにをしている」
影に溶け込むように、あるいは夕焼けから逃げるようにして座り込んでいる子供にギーヴは声をかけた。はっとしたように顔を上げたのは、四、五歳ほどの男児だ。服は煤け、裾にはほつれが見える。やわい頬の輪郭に沿って雫が伝っていた。
ギーヴは舌打ちしたいのを堪え、しゃがんで顔を覗きこんだ。
「何かあったのか」
「いえ、が」
「家?」
「家、が、ないの」
「家がない……迷子か」
口にしたことで余計に不安が押し寄せたのか、まるい目の縁には今にも溢れそうなくらい水が溜まっている。常ならまだしも、今の城下の様子ではしょうがないことかもしれない。
日が落ちきればさらに人出はなくなるだろう。ギーヴがここで放置を選択すれば、この子供はひとり寒空の下で夜を過ごすことになるのを意味している。ギーヴ自身の性格からすれば、放置を選ぶことは容易だった。寝覚めは良くなかろうが、二日もすれば忘れられる程度の出来事だ。しかし心に住まわせたあるじが、助けてやってほしいと頼むので。
「ほら、男だろう、泣くな」
手を伸ばして子供を膝の上に抱き上げ、袖で涙を拭ってやる。
「怪我はないか?」
「あ、えと、うん……」
子供はなにやら呆けているが、気にせず抱え直して歩き出す。馴染みの店にでも顔を出そうと考えていたのだが、予定を変更して、来た道を戻るように足を進めた。
「腹が減っているだろう。今日のところは休んで、明日から家を探しに行くぞ」
初めは身を硬くしていた少年も、少しすれば緊張を解いて大人しく運ばれた。ふいに、あのさ、と耳に顔を寄せられる。
「おにいちゃん、きれいだね」
「男に言われても嬉しくはないな」
ギーヴはふん、と鼻を鳴らした。

「……おぬし、ついに……」
ギーヴによる突然の訪問を訝しんだイスファーンの第一声だ。
客の来訪を告げた家宰の、困惑の理由がイスファーンには一見してわかってしまった。
夜の帳は既に降りている。事前の報せもなくやってきたのは邸の主人と水と油のような男で、しかもそれが明らかに素性の知れない子供を抱いている。誰にとっても予想外でしかない光景だ。これが予想できていたというなら、イスファーンは躊躇わず家宰ではなく軍師にと推挙するだろう。
顔を顰めるイスファーンに内心を悟ったか、ギーヴも負けじと愁眉を寄せた。
「違う。何を考えているのか手にとるようにわかるが、違う。おれはそんなへまはしない」
「ではその腕にいるのは誰の子なのだ」
「……そういえば名を訊いていなかったな」
自ずと視線はひとところに集まる。二人から同時に見つめられ、少年の肩が強張った。袖を握り締める指先は白く染まり、掴んだギーヴの服には細かくしわが寄っている。緊張を見てとったイスファーンが、抱えられた少年に目線を合わせて腰を屈めた。
「おれはイスファーンだ。それから」
部屋の隅でこちらを窺う仔狼を呼び寄せる。
「こっちの赤毛が火星、輪っかのあるのが土星だ。仲良くしてやってくれ」
無言で頷いた子供は、つい、と顎を上げてギーヴを見つめた。まさか。目を細めて左の口角だけをわずかに上げたその表情の意味を知っている。失敗した、だ。
信じられない、という顔をしてイスファーンもギーヴの顔を眺める。こいつ、自分の名前さえ名乗っていなかったのか。
「そいつはギーヴだ。おまえの名前は?」
少年は首からかけていた紐を引き上げ、提げていた木札を見せる。そこには『ヌーリ』の文字が彫り込まれていた。
「ヌーリ。そうか、ヌーリか……」
ギーヴが妙な顔をした。女連れのときに昔の女に見咎められたときのような、やや面倒さが混じった顔だ。無論イスファーンにそのような経験はないが、ただ、「追いつかれた」とだけ思う。しかし振り払うことはできない。救わねば。自分に許されているのはただそれだけだ。
「いい名前だ」
ひとつ頭を撫でてギーヴの腕から子供を降ろさせる。
「今から飯の支度をさせるから、それまで火星たちと遊んでやってくれないか」

ヌーリ、ギーヴと共に夕食をとったイスファーンは家宰に湯の用意を言付けた。
ヌーリの汗と土埃を流させるためだったが、彼は一人になるのをひどく嫌がったためギーヴが付き添って湯を使った。
客室に案内し出て行こうとすると小さな手に裾を引かれる。見知らぬ家、見知らぬ人間に囲まれた心細さはイスファーンも知るところであるから、なるべく優しげな顔と声音を作って目を合わせる。
「ギーヴがいるから不安になることはない。言いたくはないが、こう見えて腕の立つ男だ」
「おれ、ぐっ」
そんなこと聞いていない、おれは出る、と言おうとしただろうギーヴの足を無言で踏みつける。
しかしヌーリはかぶりを振って裾を握った手を離さない。
「大丈夫、戻ってくるよ。お前の着替えをさがしてくるだけだから」
ぎこちなく笑みを向けるイスファーンと、確認するかのようにギーヴを見上げるヌーリを見て、「馬鹿真面目なそいつは約束を違えない」とギーヴがため息混じりに頭を掻く。
「じゃあ、やくそく」
「おう」
小指の先を絡ませてささやかな約束を交わす。かならずもどってくる。指先に伝わるその指の細さに、やわい肉の頼りなさに、石を無理矢理飲み下すような心地がした。少し力を込めれば簡単に砕け散ってしまうだろう存在を、なんとしても安全なところに置いておきたい。そう思った。
思わずちいさな頭に手を置いたイスファーンを、ヌーリが見上げる。
「イスファーンさま、お兄ちゃんみたい」
不思議そうに、しかし嬉しそうに、子どもは笑った。
「もっと、慌てるかと思っていた」
「それは何に対してだ?」
ギーヴが見知らぬ子供を抱いていたことか、なぜかイスファーンの邸を選んで訪ったことか、それとも今の状況――寝台の上、ヌーリを挟んで川の字になっていること――か。
「すべて」
あの後、約束通り部屋に戻ったイスファーンを少年は離さなかった。右手にギーヴ、左手にイスファーンをがっちりととらえ、ぐいぐいと寝台に引き上げようとする。ギーヴはごっそりと気力を奪われたように憔悴していた。
好きにさせようと諦めまじりに寝台に上がったが、やはり成人男性二人を並べて寝かせる想定などされていない寝台は狭い。身動げばどこかしらの部位が当たるし、動かなくとも一人は落ちかけ、一人は壁に押し付けられている。
それでも二人の間でヌーリは満足そうにしているので、文句は言えない。子守など得意ではない二人にとって、泣き叫ばれるよりかはよほど良かった。
ヌーリは腹這いになってなかなか寝ようとしなかった。ギーヴはとうに世話を放棄して、時折相槌を打つだけの人形と化している。責任感などというものの有無をギーヴに問いただすのも今更で、ヌーリの相手をするのはイスファーンの役目となっていた。
同情の気持ちもある。子供の世話が不得意なだけで、嫌いではない。だがそれ以上に、「兄のようだ」と言われたのが大きかった。
イスファーンにとっての兄――シャプールは、とてつもなく大きな意味を持つ。人格の形成に多大なる影響を与えている存在だ。であるから、兄と言われてしまっては無下にはできない。
兄は、幼いおれにどのように接していただろうか。
悩み抜いたすえ、イスファーンは自身の知る限りの神話を物語り、故郷の風景を語り、友人を語った。悲惨なことなど何もない、輝かしいパルスの姿だけを。誰もがみな生きていて、青空を見ては屈託なく笑い、のびのびと春を謳歌していた時間を。
講談で生きてきたわけでもないイスファーンの語りは決してうまくはなかったが、朴訥ながらも拾い上げた珠に糸を通すような調子で、思い浮かんだかつての光景を舌先に乗せた。むしろこちらの方が口先で生きてきたような男は、時折茶々をいれたり笑ったりしたが、その他は別人のように静かにしていた。
やがてヌーリの寝息が聞こえてきて、イスファーンは口をつぐんだ。枯れかけた喉を潤すため、寝台を降り窓際に歩み寄ったところで背中にギーヴの声が投げかけられた。
「着替えさせた時に見たが、少し痩せてはいるものの健康体だ。自由民の子だろう。それが、なぜ一人でいたのか」
ひそめてはいるが、寝静まった夜半にその声は波紋のようにたしかに響いてイスファーンの耳に届く。イスファーンは黙っている。
「愉快な想像ではないが……」
すぐ傍で寝ている子供がいるからと口にしたくなかったそれを、平然とギーヴは口にする。
「口減らしのために棄てた、という可能性も」
「今その話はするな。明日考える」
イスファーンは会話をばっさりと断ち切って、顔を顰めながら寝台に戻った。そこへ再び口を開いたギーヴが溢したのだ。――もっと、慌てるかと思っていた、と。
「驚きはしたが、これはおれの行動の結果であり咎だ。おれが救わねばならない。それに」
言いにくそうに付け加えた。
「おぬしが……案外子どもを苦手そうにしていたから」
ギーヴは無言で続きを促す。
「自分より慌てている人がいると冷静になってしまうような感じで、なんというか、こう、おれがしっかりせねば、という気持ちがだな」
言葉にした途端気恥ずかしさが込み上げてきたのか、調子が尻すぼみになる。
この男には大きな空白があるとイスファーンは思っている。勝手に寄ってくるくせに、こちらが手を伸ばすと軽い足取りでその空白の向こうへと身を逃す。伸ばした手はギーヴの作り上げた輪郭にしか触れることができない。
そこに何があるのか、イスファーンは知らない。おそらく彼に関わりのあるほとんどの人間もまた知らないだろう、と思うのは希望的観測だろうか。自分だけが知らないのではなく、誰にでも教えようとしないでいてほしいと思っているのかもしれなかった。
しかし、いま、そんな男が空白のうちから、わずかに指先のみをのぞかせているような気がしてならないのだ。
「子供は好きではない。無条件にその柔らかさのみで当然のように助けを得る、一人では生きられない弱い生き物だ」
ギーヴがゆっくりと話し始める。
『子どもらしさ』とも言うべき要素。つまりは体に対して大きく丸い頭部。短い手足に大きな瞳。そしてのろい動き。
これらの特徴を否応なく「かわいらしい庇護すべきいきもの」と思うように人間は作られているという。それを絡繰じみているとギーヴは言う。設計された、己のものではない感傷にうごかされるのはまっぴらだ、と。アスタグフェロッラー。闇の中で口がもう一度動いた。
「ではなぜ助けた」
「おれもまた、それに助けられて永らえた弱きいきものだったからさ」
ギーヴはゆったりと寝返りをうってこちらに背を向けた。口調は変わらないが表情は見えない。ひょっとしてこれは、彼なりに弱味を見せているのではなかろうか。それにしてはずいぶん下手すぎるが。
普段の饒舌さは鳴りを潜め、平坦な口調で言葉を落とす。
「ひとは、子を、見捨てるようにはできていないのだと思う。……それでも、いくさばで道を阻むなら。あるいは百万が一にでもあるじが命じたなら、容易くその首をへし折れるおれたちは、人でなし、なのだろうな」
――では捨てられたおれは一体なんだと言うのだ。捨てられ、しかも人でなしだというおのれは、一体。
内心の反駁は思わず口に出ていたらしい。
「さて、その奥方がどのような御仁であったか知らぬゆえ…… 」
ギーヴはひどくさっぱりと続けた。
「奴隷を人とは考えていなかったのやもな。であれば、その仔もまた、人ならざるなり、と」

白 日

払暁。花曇りのぼんやりと柔らかな光の中、むくりと体を起こしたのはギーヴであった。
やはり狭かったらしいイスファーンは、床で狼を抱いて寝ている。数瞬考えてから自分の掛布を被せておいた。と、その物音のせいか、寝ていたヌーリが目を覚ます。しばらくむずがるように瞼を擦っていたが、はたとそれをやめてとび起き、辺りを見渡した。隣にギーヴがいるのに気付いて、大きく目を見開いて肩を落とす。
「朝一番にこの顔を拝んでおいてため息とは失礼なやつだ」
寝て起きたらすべては夢で、元通りになっている。そんな期待をしていたのだろう。落胆する気持ちは手にとるようにわかった。
床のイスファーンを指差して、
「今日はこいつも一日空いてる。おれも報告が終われば空くから、家を探すのを手伝ってやろう」
そう言うと、ヌーリは不安そうにこくんと頷いた。
身支度をし、さあ王宮へ、という段になってヌーリを連れて行くか否かで二人は少し揉めた。
「なんでそう面倒をわざわざ背負い込む。預けておけ」
「知らない家に置いてかれたら不安だろう」
「一晩泊まったんだから知らないわけではないだろうに」
「誰もかれもおぬしのように厚かましいと思うなよ」
そう言い捨てると、イスファーンは足もとでおろおろしているヌーリに気付いてさっと抱き上げ、足早に厩に向かった。ギーヴは口を引き結んでその影を追う。

鞍に跨る自身の前にヌーリを座らせたイスファーンは王宮に向かっている。少し遅れてギーヴが続く。馬上の高さに怯えるヌーリの気を逸らすべく、何気なさを装って雑談をふった。
「そういえば、兄がいるのだったな。いくつ年上だ?」
「えっと……」
指折り数えるのを見下ろして待つと、困ったように開いた両の手を差し出される。
「十よりももっと」
「えっそんなに離れてるのか。おれも兄とは十以上離れてる、同じだ。兄上はどんな人なんだ?」
「えぇと、うんと、おっきくて、足がはやくて、力がつよい!」
「自慢の兄上だな」
「そうだよ。いまはチョーヘーっていうので会えないんだけど、イスファーンさまと同じように、かえってくるってやくそくした!」
軽く目をみはる。徴兵。であれば何か手がかりがあるかもしれない。なにせ今向かっているのはその軍の親玉のいる場所だ。
そうこうしているうちに王宮に着いた。もともとイスファーンの邸はさほど外れにあるわけではない。というのも、元々シャプールのものであったのをイスファーンが継いだからである。馬を門で預けて、二人は朝礼に向かった。この場合の朝礼というのは、厳粛なものではなく、政務前の軽い情報交換や報告のための場、程度のものである。
見知らぬ幼子を連れて出仕してきた両将はすぐさま王宮の話題になり、歩いているだけで、噂を確かめようと柱の裏や向かいの回廊から好奇心に溢れた視線が飛んでくる。独身のうちが華とばかりに艶聞の多いギーヴと、見るからにお堅いイスファーン、どちらも子供とは縁遠い存在であったから騒然とするのも無理はなかった。同僚ともなればさらに気安く、直接声をかけてくる。
「おっ、ついに年貢の納めどきってやつか?」
「それにしちゃでかくないか?」
「ザラーヴァント卿、ジムサ卿……」
朝礼には王の両翼に国境警備などでいない将を除いた諸将たち、宰相のルーシャンをはじめとした政治に関わる文官たちが揃っている。
そのくだりはもうやった、とうんざり顔のギーヴが挙手して「迷い子を保護した」と言うと、あとを引き取ってイスファーンが続ける。
「そういうわけで、今日は私とギーヴ卿が一日空いているため、親を探そうと思っています」
宣言するようにやや声を張って伝えると、なんだそうか、とざわめきが低まる。
薬師の手配、調査の結果、仮設医院の用地確保など、いくつかの報告があって朝礼は恙無く終わった。
露骨につまらないと顔に書いてあるザラーヴァントを置いて、イスファーンはナルサスの元に歩み寄る。ヌーリは女官と話し込んでいるギーヴに預けてある。
「イスファーン卿」
「お聞きしたいことがありまして。保護した少年の兄が徴兵でパルス軍にいるらしいのです。まだ若い男で、最近王都に越してきたという兵はご存知ありませんか?」
道中、ヌーリから聞き出したいくつかの情報を伝える。
「さすがに全員を知っているわけではないからな」
長身痩躯の男――しかし並以上どころか千人を預けても問題なさそうな剣技を持つ軍師だ――は苦笑した。
「午前中のうちに調べておこう。何かわかったら使いをやるが……今日は城下に?」
「ええまぁ」
おや、とナルサスはイスファーンの顔色をうかがった。常にはあらず、顔がやや俯きかげんである。礼儀正しい青年は普段から直視を厭わないところがあった。にもかかわらず、今は松葉のように真っ直ぐ生え揃った睫毛が瞳にかぶさり、薄く影を落としている。
「どこか具合でも?」
「いえ、そういうわけでは」
イスファーンの返事がいささか明瞭さに欠けるのは伝えておかなければならないことがあるからだった。イスファーンは口を開く。
「――恐らく、」
言葉を切って、はくりと息を飲む。
口に出してしまえば何かが変わる気がしている。けれども言わずにいれば、それはそれでおのれとは到底言えず、結局変質するのならば自らの手で火をつけたかった。
「あの子供の親は、夏に私が斬った賊です」

王宮を出た二人は一度別行動をすることにした。来たときと同じように鞍にヌーリを乗せたイスファーンは、市街をまわって住宅地をしらみ潰しに当たる。一方のギーヴは役所に行っている。子供を捜している親が来ていないか尋ねるためであった。
案外すぐに見つかるかと思いきやまるで手がかりがない。捜しながらヌーリに話を聞くが、幼いせいかはっきりとしたことがわからない。数日前、母と共にただひたすら歩いてきたのだと言う。
午前中いっぱいを費やして訊き回ったが、有力な情報は得られない。いつしかヌーリの口数も減ってしまい、徒労感だけが重く垂れ込める。
市場の屋台で串焼き肉を買ったイスファーンは、馬を降りたヌーリに一本渡す。
「腹が減っては何もできないからな」
よく焼かれた羊肉の匂いにつられて、ヌーリの腹がきゅぅ、と鳴いた。おずおずとかじり始めた少年は、やがて口端をたれで汚しながら勢いよく食べ終える。物足りなさそうにしているヌーリに笑いながらもう一本与えて、イスファーンも串をかじる。
「うん、旨い」
甘辛いたれがよく染みた肉は、口内で柔らかく崩れる。噛み締めるとじゅわっと肉汁が溢れだして、次の一口を運ぶ手が止まらない。当たりだ。次に買うときは塩味にしてもいいかもしれない。
「ごちそうさん」
またご贔屓に、とにこやかな屋台の主人に手を振って立ち去った。馬を引いて、反対の手ではヌーリと手を繋いでいる。
昼に一度、この南の広場でギーヴと落ち合う約束をしていた。以前はもっと多く、競うように屋台が並び、人探しどころか待ち合わせなどできる状態ではなかったのだが、近頃は病が流行っており外を出歩く人はめっきり減っている。それでギーヴも、この子供を放っておけなかったのだろう。
ヌーリの口もとについたたれを拭ってやっていると待ち人が現れる。
「そうしていると兄弟のようだぞ」
イスファーンとヌーリはまったく同じ仕草で顔を見合わせた。
「多分おぬしの兄より歳上だから、俺が長兄だな。それで、どうだった」
後半は無論ギーヴに対する問いかけである。繋いだ手からぎゅっと緊張が伝わる。
「来ていないそうだ。届けもないらしい」
「そうか……。こちらもこれといった収穫は無い」
ぁ、とかぼそい声があがる。目をやれば先ほどとは打って変わって、黙ってうつむくヌーリがいる。
「兄ちゃんたちがちゃんと見つけてやるから」
イスファーンは安心させるように大きな笑顔を見せ、ギーヴは柔らかな髪の毛をかき回すように撫でる。おれは兄ではないがな、という訂正は忘れなかった。

「ギーヴ卿! イスファーン卿! こちらにおられましたか」
駆け寄る蹄の音と呼びかけに振り返れば、ちょうど一人の男が馬から下りるのが目に入る。察したギーヴが腰の巾着から硬貨を一枚取り出し、ヌーリに手渡した。
「おつかいを頼む。そこに出てる屋台で果実水を買ってきてほしい」
使命感に緊張する少年に笑みかけながら続ける。
「三人分だ、頼んだぞ」
頷いたヌーリの背を軽く叩いて送り出す。それと入れ替わるようにして、ナルサスからの使いがたどり着いて報告した。
「お探しの男は確かに在籍していた記録がありますが、残念ながら既に……」
男は黙って首を振った。意味するところは自明だ。
「そうか……。報告ありがとう」
「それと、ナルサス卿からの伝言です。城壁の外に孤児院があるから、そちらに行ってみてはいかが、と」
使者の言葉に二人は顔を見合わせた。
孤児院は、アルスラーンが即位してすぐに整備した施設の一つである。かねてより奴隷解放を掲げていたアルスラーンは、解放された彼らの働き口として、戦で親を喪った子供たちの世話をする孤児院をいくつか用意した。もちろん解放された元奴隷だけでなく、自由民の寡婦なども働いており、俸給の一部は国庫からも賄われている。最近越してきたのなら、ヌーリの母親もそこへ職を求めに行った可能性がある、とナルサスは指摘したのだった。
「なるほど。盲点だった、助かった」
「いえいえ。では失礼致します。どうか神々のご加護がありますように」
「あぁ」
再び馬上の人となった使者は城壁の方へと去っていった。それを見送っていると、
「あ、ねぇイスファーンさま! てつだって! 落ちる!」
何事かと声の主を見れば、屋台の前でみっつめの器を持つのに四苦八苦しているヌーリの声だった。
「悪いな、お前の腕は二本しかないというのに」
ギーヴが笑って助けに行った。雲の切れ間から差し込んだ光が柔らかく辺りを照らしていた。
「突然邪魔をしてすまない。おれたちは、」
「存じておりますよ、イスファーン様にギーヴ様でいらっしゃいますね」
「ああ、そうだが、なぜ?」
「先んじてナルサス様の使いという方がいらっしゃって、お二人が訪れるだろうから協力してほしいと」
「なんと」
「敵に回したくない根回しの速さだ」
教わった孤児院の扉を叩くと、責任者らしき初老の紳士が対応した。決して華美な服装ではないが、襤褸でもなく、立ち居振る舞いには品があった。
ここには戦争孤児も多い。ゆえに軍人は疎まれるかと思っていたのだが、意外にも温かく受け入れられた。これもひとえに、アルスラーン陛下の人徳の成せるわざ、と思うイスファーンの隣でギーヴはこの顔のおかげかな、などと考えていた。どちらかといえばイスファーンの方が正解なのだろうが、しかしなによりも恐ろしいのはナルサスの先回りである。使者の方も、言っておいてくれたら駄賃代わりに串でも買ってやったというのに。
そうこうしているうちに、庭で遊んでいた孤児院の子供たちがわらわらと寄ってくる。
ヌーリは面食らって目を白黒させているが、それに構わず子供たちは元気に囀り出した。
「こんにちは!」
「お兄ちゃんたちだれ?」
「あそぼ!」
「この子もここで暮らすの」
一斉に口を開いた雛鳥たちを紳士が宥めた。
「びっくりさせてしまったね。みんな、自己紹介をおし。それからきちんとお誘いをしてから遊ぶんだ。自分の都合だけを考えちゃいけないよ」
それから二人に向き直って、
「私たちは奥の部屋で話しましょう。中庭にも子供を見てくれる方がいますから安心してください」
そういって優雅な仕種で扉を指し示した。

結果として、ヌーリの母親はここにもいなかった。だが大きな手がかりはあった。自宅の近所でヌーリを見たことがある、おそらく家も知っているという人物がいたのだ。
「それは本当か⁉︎」
「はい。ですが……」
勢いこむイスファーンとは対照的に言い淀む女性を、ギーヴが安心させるように微かに笑いかけて先を促す。
「あの家……今はもう空き家になってるんです」
「なんということ」
ギーヴが柳眉を跳ね上げる。
「いつからだ?」
「たしか、数日前からです。奥さんは最近の流行り病で亡くなったって聞いて、あの子はどこかに引き取られたものとばかり……」
女性は痛ましそうに、窓の外で駆け回るヌーリを見つめる。
外は日没が迫っていた。ちょうど今日最後の陽が地平の向こうに消えゆく頃合いである。
どうあれ、一度行ってみるしかなかろう。目線で意見の合致したことを確認した二人は、家の場所を聞き取った。
「情報提供、感謝する」
「どうも、助かりました。今度お礼をさせていただきます」
難しそうに口を引き結んだイスファーンが礼を述べると、ギーヴは軽やかに立ち上がって恭しく腰を折った。

話を終えて部屋を出ると、子供たちも中に入ってきていた。息を弾ませながら二人に駆け寄るヌーリの頭を撫でて、友達ができたのか、と問うと嬉しそうに肯く。
「そうか。今日のところはお別れだが、また遊びにくればいい。きみには明日も明後日も、その先にも時間がある。きみにはそれが許されている」
初老の紳士が妙な言い回しをしたが、おそらく歓迎の意だろう、とイスファーンは納得した。

時系列を整理せねばならない。
ひとつき程前、ヌーリは母親と共に王都にやってきた。城壁の外に住んでいたという。
数日前、ヌーリは母親と「ずいぶんあちこちを歩いて」、ギーヴに見つかった辺りまで来たらしい。そこで母親とはぐれる。その後、母親は流行り病で死去。はぐれてから数日間、ヌーリはずっとあのあたりを彷徨っていたということになる。
はぐれて一日程度だと思い込んでいた二人は大いに驚いた。そして同時に、この子供もまた、自身が棄てられたという可能性も考えていたのだろうと思い至る。ゆえに詳しいことをぼかし、なるべく考えないように、わからない振りをしていたのだろう。現実が受け入れがたいほど直視が困難になることを、イスファーンは知っている。

その家に着く頃にはあたりは僅かにすみれ色の混ざった薄闇に染まっていた。
あれか、とイスファーンが問うと緊張した面持ちでヌーリが肯く。馬を下り、そのまま足を進めようとしたとき、ギーヴが左手をさっと上げた。顔を家の方へ向けたまま、すこしだけイスファーンの方に頭を傾けて囁く。粗末な石積みの家、その窓からわずかな灯りとそれに照らされて動く影が一瞬見えた。
「なにかいるな」
「盗みか?」
「わからん、が、素人だな」
ヌーリを馬のところで待機させ、二人は静かに家に寄って行った。すぐに対応できるよう、手は柄にかけてある。
皮肉なものを感じる。またしても賊退治と称して人殺しをするのか、おれは。自嘲を頭を振って追い払った。
ギーヴが裏手に回ったのを確認し、勢いよく木戸を蹴破って室内に踏み込むと、中にいたのは一人の老婆であった。音に驚き、慌てて振り向きざま傍らの紙燭に手を引っかけ、灯火が大きく揺れる。瞬息の間きつい鷲鼻が見えたと思った次の刹那、室内は当て所もない闇に包まれた。逃げられる!
「ッ待て!」
どたん、と鈍い音がした。徐々に闇に慣れはじめた目を凝らして見ると、老婆が腰を抜かして倒れている。
闇に紛れて逃げる算段かと思っていたが、あれは本当に驚き慌てていたらしい。盗人ではないのか?
「ぁ……すみません、ごめんなさい申し訳ありませんお願い許して殺さないで、どうかお願いします」
訝しむイスファーンの耳に悲痛な懇願が届きびくりと身体が固まった。――命を、乞われている。
「なにをしている」
いつの間にか傍に来ていたギーヴの声が向かいから聞こえてくる。既に目は慣れていたが、イスファーンはその顔を見ることができない。
老婆はひたすらに命と許しとを乞いながら必死に出口へと後ずさりする。然程の危機が迫っているわけでもなく、また、目の前にいるのがパルスの軍人であるということにさえ気づいていないふうである。それは恐慌状態と言ってよかった。
喪うことを懼れる気持ちは痛いほどわかる。
イスファーンは武人であった。ゆえに戦場では幾人も斬り捨てたし、自らも殺される覚悟をしていた。しかし、一度たりとて自国の民を手にかけたいなどとは思ったことはない。イスファーンが軍にいるのは、ひとつには兄の仇討ちのためであり、もうひとつはこれ以上なにものも喪いたくないという思いのためであった。既に何が残されているのかわからないが、とにかく奪われないために、守るために、剣を振るっていた。そのはずだった。
腕を掴んだ。老婆の、ではない。老婆に向けて伸ばされた、ギーヴのものを掴んだ。
「――――」
「なに?」
「見逃そう、と言った」
「私情、とやらではないのか? それは」
「なにも盗ってない」
「そうだとしても不審人物だ」
「そこまで仕事熱心だったとは知らなんだ」
言い終えるよりも前にイスファーンは腕を放し、柄に手を掛けていた。それを見てはっと嗤いとばす。
「視野が狭い。おまけに短気。そんなんだから女に逃げられるのだ」
「は?」
見ろ、とギーヴが顎で示した先に、老婆の姿は既に無く。はっとして外を見やれば遠ざかる背中が僅かに見えた。
思わず手から力を抜いてだらりと体の脇に垂らす。後悔は無かった。
「あいつが何か知っていたらどうしてくれる」
冷めて尖った視線がイスファーンを射抜く。
それでもすっかり錆びて焦げ付いた胸が、鼓動が、守るために腕を振るいたいと軋む。既に声すら朧な亡き兄の俤は、そんな教えにしか見出せなくなっていたのだ。
「棄て犬のような顔をするな。我を通す術ばかり上達しおって」
「していない」

家には手がかりになりそうなものは無かった。
「ヌーリ。……すまない。今日も一緒に寝てくれるか?」
「……しょうがないなぁ、いいよ」
あの場で老婆を見逃す選択をしたことに悔いは無かったが、子供に、諦めに似た淋しげな笑顔をさせてしまったことだけは何よりこたえた。ギーヴも押し黙ったまま、その日は落胆とともにまた三人でイスファーンの邸に帰り、前日と同じように一つの寝台に収まった。

春 宵

気づけば寝台からイスファーンが消えていた。床に落ちているというわけでもなく、密かに家を出たようだった。ため息をついて寝台から滑り降りる。ヌーリの健やかな寝息を確認し、ギーヴは音もなく部屋を出た。
また面倒なことを考えているのだろうな。そう思いながらしばらく探し歩くと、水路のそばに背を丸め、膝を抱えて座りこむ姿が見えた。
海の底にいるような薄ぼんやりした青い空気だった。月のまわりだけが月光に照らされ真空色に見える。
イスファーンは膝の上に置いた腕に顔を伏せている。束ねられていない髪が肩から流れ落ちて、帳のように彼の表情を隠す。何も見たくないと全身から発していた。あんな姿をどこかで、と記憶を探り、話の結末を知りたくなくて本を閉じてしまう子どもの姿に思い当たる。見なければ知らないままでいられると、まだ思っているのだろうか、あいつは。
「はっきり言わせてもらうが、今おぬしの相手をする気力がない」
気配を悟ったか、顔を上げないままくぐもった声が発せられる。
「包まず言えば、むしろおぬしにだけは来てほしくなかった」
そうだろうというのはわかっていたが、それは向こうの都合であって、ギーヴには関係のないものだ。
「因果は巡るものだ」
「わかっている。あれから親を奪ったのはおれだ」
ますます腕に顔を押し付け、小さくなるイスファーン。腕を掴む指が白く染まっている。本当に子どものようだ、と思い、不意に気付く。この男もまた道を失った迷い子なのかもしれない。
「おれだけ被害者面など、できるはずもない……」
水に流され消え入るような声だった。めんどうだ、が一番の本音である。ヌーリに対して責任を感じているらしいイスファーンと、イスファーンに対してなんの責任も感じないギーヴ。同じような立場でも感じることはこんなにも違う。まったく真逆の相手と組んで上手くいく、なんていうのは幻想の世界だけだ。理解は気力を消費する。ゆえにギーヴは斟酌をしない。
「アルスラーン陛下からの伝言だ。
『たしかに戦の最中、迷うことは許されない。むしろ、罪でさえあるかもしれない。ということはだ。今おぬしが迷っているのは、平和が訪れている証拠と捉えることはできないか』
だそうだ」
ひとときかもしれないが、と若き王は諦めに似た悔しさを滲ませて付け加えていた。
「いつ、そんな話を?」
「朝、おぬしが軍師どのと話しているあいだに。おれとて常に女官に手を出しているわけではない」
ギーヴは闇を仰ぐ。
「いつまでも戦乱の世が続くわけもない」
それゆえ、おぬしのような、痛みを理解できる者が必要なのだろう。ギーヴはそう呟いて、座るイスファーンの背中に凭れかかった。接した部分からじんわりと熱が伝わって、ほぅと息をつく。春とはいえ陽の落ちた後はまだ冷えるからだろうか。それにしたって、人の熱というのはどうしてこうも離れ難いのだろう。
「国が変われば人の在り方も変わる。そうすればおぬしやヌーリのような人間は減るのではないか?」
水音は絶え間なく続く。もとを辿れば雪溶けのたった一滴なのだという。一粒が寄り集まって奔流となりやがては遠い海まで届く。
「大抵の問題というのは、奥深くに隠れているものだ。病膏肓に入る、と言うだろう。温かな手を差し伸べて病を癒すのは政でありそれを行うアルスラーン陛下だ。だが陛下の御手がそこに辿り着くために、肉を断ち血を浴びてみちを切り拓く必要がある。おれたちはそれをしてるのだと思えばいい」
預けてしまえばいい。荷を。矛先を。旗を。
小刻みな震えと乱れた鼓動が背中を通して伝わる。泣いているのか、と覗きこもうとすると顔を押しやられた。そうして震えを飲み込んだ口で「らしくないことを言う」と憎まれ口をたたく。
「これ以上は有料だ」
「金を払っておぬしに慰めてもらうなど、ぞっとしない」
「おれも勘弁だ」
ふたりは忍び笑いをもらした。
そういえば、背後の男は海を見たことがあるのだろうか。水音に誘われてか、ふとそんなことを思う。ギランの海は生命力にあふれていて、人々も同様に逞しかった。無論ギランに限らずどこも民衆というものは強かなものだが、あの海辺の民たちはもっとあっけらかんと、あけっぴろげに生命への貪欲さを見せていた気がする。そういう等身大の素直さがギーヴには好ましかった。
どうせ生きものというのは、死ぬまでは生きなければならないのだから、この男も開き直ればいいのだ。
一度、あのむやみに蒼茫として、いかにも人間には無関心な海原を見てみたらいい。そうしたら自分がどれだけ小さく縮こまって縺れているのか、きっとわかる。
なにをどう選んでも、生の続く限りその道のりに後悔やら痛苦などというものは付きもので、であるのならば流された先でそれらに見舞われるよりも、自ら選んでそこに飛び込むほうがいくらかましではなかろうか。道を選ぶことすら許されない人間もそれなりにいるこの世界で、選べるだけ恵まれているとすら思う。そんなことを言っても反発されるだけなのだろうが。
彼を今なお苦しめるものは無力感なのだろう。シャプールを助けること能わず、仇討ちさえ叶わず。結局何もできていないという焦燥が彼を行動へと駆り立てるのだろう。
だから、いつかきっと海へ連れていこう。馬鹿真面目なこの男にあの渺渺とした紺碧を見せて、誰でも、このギーヴでさえも、どうしようもなく無力であると、知らしめてやろう。人ひとりが動いてどうにかなることなどたかが知れている。思い通りになると思う方が傲慢なのだと、いつまでも子どものような男に、教えてやろう。
矛盾した思いを抱えることもまた人間らしい、と声なく笑う。同じ地上に立って同じものを見ていても、月と太陽ほどに確乎たる距離のあるおれたちを、陸を繋ぐ海原が慰めるだろう。

春 曙

家宰が慌ただしく扉を叩く音でイスファーンは目覚めた。
「どうした」
身支度を調えながら短く問うと、お客様がおいでです、と遠慮がちに言う。その予定はなかったはずだが、と首を捻ると、困惑したように家宰が付け足す。
「ヌーリ様のご親戚を名乗られる方が」
はたと手を止める。脳内を渦巻くのは疑心と期待だった。それらを抑えつけるように深く静かに息を吐く。とにかく一度会ってみぬことにははじまらなかった。
「騒がしいな」
振り返ると既に身繕いを終えたギーヴと寝台の上でいまだ寝ているヌーリがいる。家宰もそれを見たのだろう。彼は一瞬だけ妙な顔をしたが、客人の場所を伝えた後、ではお待ちしております、とだけ言って下がった。
「聞いていたか?」
「まあだいたい」
言葉少なになってしまうのは深更にした、らしくもない夜話のせいだろう。あれは本当にお互いらしくなかったという自覚があった。気恥ずかしい、などという感情が向こうにもあったことは驚きである。
ヌーリは寝かせたままにしておいて、二人は廊下を挟んだ向かいの部屋に移動した。
待っていたのは老婆だった。どうにも、不思議な既視感がある。そう思っている間に、老婆は立ち上がり、深く頭を下げる。
「昨晩は大変失礼いたしました」
その声に反応したのはギーヴだった。一拍遅れてイスファーンも驚愕に目を見開く。特徴的な鷲鼻。既視感もなにも、目の前の人物はつい昨晩、ヌーリの家で見た顔であった。
「こちらこそ、」
なんと言えばよいのだろう。逡巡はすぐに伝わり、重く密度のある空気が三人を覆った。イスファーンは曖昧な顔のまま誤魔化すように席を勧める。
「昨日はなぜあの家に?」
ギーヴが熱い茶を差し出しながら斬り込むように尋ねた。こいつ、いつの間に茶なんか。思いながらなんとはなしにその手を眺める。剣を振るっているのが嘘のように繊細な色形をしていて、いかにも器用に動きそうだった。
「……遺品と、孫を探しに。あの後自宅に戻る途中で役人に保護されて、その時に同じように人探しをしている方がいると、教えてもらいました」
「なるほど、我らはすれ違ってしまっていたらしい」
深く腰掛け直し背凭れに半身を預けて、ギーヴは天井を仰いだ。
「本日はそのヌーリの件で?」
「ええ、ええ、引き取らせてもらえないかと」
体は前のめりになり、目には熱が籠っている。口調こそ提案の形をしていたが、声には決意が宿っていた。その勢いにやや圧されつつイスファーンが口辺に笑みを佩く。
「ご家族と暮らせるならそれが最善だろう。貴女がいらしてくれて本当に良かった」
ああそうだ、と何気なくギーヴが声をあげる。
「失礼だが、何か証明できるものをお持ちで? いや、疑うわけじゃないんです。ただ一応ね」
「証明……、こちらではいけませんか」
少し首を捻ってから老婆がそっと取り出したのは、掌に乗る程度の小さな木の板だった。ヌーリが首から提げていたものとよく似ている。
この板は出生証明兼戸籍代わりのようなもので、名前と出身地が彫り込まれるため自由民たちの間で簡易的な身分証明として使われる。いつから始まったのか知らないが、縷縷と続く慣習のようなものだ。だいたい二枚一組で、片方に父親の、もう片方に母親の名前も彫られる。
おもしろいのは、一本の木から切り出した板を一族で端から切り取って使っていくために、木札が一種の割符のようになることだ。
つまり、この板がヌーリの持つそれと組み合わされば、一応親族と認めることができる、ということになる。
「確認してみるか」
ギーヴは軽く肩をすくめた。
当然、木札を持っているのはヌーリだ。ギーヴを客室に残して寝室に行き、ヌーリを揺すり起こして寝台から連れ出す。イスファーンはまだ眠そうにしている少年の手を引いて部屋に戻った。
――ヌーリ。
足を踏み入れた途端、天上の羽衣もかくやというような優しい響きがした。
木札の結果など見なくとも分かっていた。老婆の顔を目に写した瞬間、ヌーリのつややかな眼球を水膜が覆い、少年は声もなく息を飲んで、堰を切ったように駆け寄った。わあわあと顔を歪めて泣くヌーリは、しかし安心しきって頬を染めている。
「これで一件落着、ってところか」
「そうだな」
喜びに紅潮するヌーリの顔を見て、イスファーンはほつれるように笑んだ。内側からじんわり立ち上る幸福感に胸が熱くなる。一度はこの手で断った糸を、繋ぎなおすことができた。そんな実感が腹腔の中で火を灯す。
どうかあの頬が、二度と青褪めることなどないように。そんな未来が来ないように。
時がきたればイスファーンはまた武器を握るし、振り下ろすことを選ぶだろう。畢竟、この願望は泡沫のようにか弱く、夢幻のように非現実的であるとわかっている。わかってはいるが望まずにはいられなかった。
何に願うべきか、イスファーンは知らない。だが、人間でしかない無力なイスファーンのせつなる願い、それは確かに天に向けた祈りだった。いかにも傲慢な人間らしい、澄み切った願いだった。

手を振るヌーリと何度も会釈をする老婆が道の向こうに消えるのを見送って、イスファーンは踵を返した。
「戻るか」
「おれも一緒にと言いたげな物言いだ」
「……」
イスファーンはしばらく無言でギーヴの顔を見つめた。それからすいと視線を外す。
「――寝台が、広い」
「は、」
ぽかんと、美男子とあだ名される人間がしてはいけない顔を晒した気がする。いま、なんと?
「こんなことをおぬしに言うのは癪だが。たぶん、おれは淋しいのだ」
それだけをやけに早口に言うと、イスファーンは返事も聞かずに歩き出してしまった。
ざっと一陣の清風が吹き付ける。どこからか運んできた大量の花弁が二人の間に流れ込み、渦をえがいて舞い上がった。思わず目を細めたギーヴが、ゆっくりと瞼を上げたその先。泣き笑いのような表情で、こちらを振り返る男がいた。

「ヌーリ」とは光を意味する。眼前の迷い子は、あの少年の灯火を分け与えられて家を見つけたのだろう。

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