ファルハーディン

シャプールに救出されないif
多大なる捏造の数々

 

 

 

若い、凜然とした青年が単騎、雪を蹴散らし山を駆けていた。馬の背にいくらかの荷物を載せてはいるが、山越えをしようとしているのではないようである。
青年の手綱さばきは見事なものであったが、ひとりと一頭はあてどもない様子で山中を進行している。それもそのはず、見ているのは地面に残った痕跡で、どうやら何かを追っているらしい。時折馬の脚をゆるめては左右を見渡し、目当てを見つけられずまた歩を進める。先ほどからその繰り返しだった。精悍な顔には焦りが見える。吹きつける強い雪混じりの風が、追うべき跡を隠そうとしているのだ。
一騎はしばらくそうしてさまよっていたが、やがて目的を見つけたのか、大きく目を見開き一心不乱に駆けていった。

馬を降りた青年の目の前にはひとつの塊がある。気候を考えれば有り得ないほど薄衣で倒れている人間だ。
差し伸べた手にはぞっとするほど硬く冷たい感触。生命の灯火はとうに消え失せた後だった。
刺すような冷気と共に、にわかに降りだした氷雨がかれらの肌を叩く。
痛ましさからか、それとも口惜しさからか。しばらく青年は眉根を寄せて拳を握り込んでいたが、やがて、その表情がはっきりと驚愕に変わった。

深いところから、一気に水面に引き上げられるように目が覚めた。
瞬時に状況確認をする。争うような物音はない。ここが自身に与えられた天幕の中であり、まだ夜が明け切らぬくらいの時間帯だと判断して体の力を抜いた。吐き出されたさきから息も凍りつくような寒さだ。
戦士はいつでも充分に休息をとれていないといけない。いくさがいつでも昼日中であるわけがないのだから。シャプールはいつからか、いつでもどこであっても必要なだけ寝られるようになっていた。むしろそれができない者から死んでいくのだ。技倆でも勇気でもなく、体調管理が起因して戦場での生死を分けることは大いにある。
だから、このような目覚めは久しぶりだった。その原因は明らかに、つい今しがたまで見ていた夢のせいだろう。
ため息を吐いて、顔を覆っていた手を降ろした。
「今は行軍中だというのに」
気が緩んでいるのか、締め直さねば。深く息を吐いて、吐いて、すべて吐き出して、鼻の奥が痛むくらい冷たい空気を吸い込んだ。

遠征は無事におわり、軍は予定より少し早く王都へ帰還した。
交易の中心地であるエクバターナはいつでも隆盛を誇り賑わっているが、それにしてもいつにもまして浮ついている市井の空気を、シャプールの膚は感じとった。
門から王宮へとまっすぐ向かう大通り、その道すがら原因を探るも突き止められず。暫く離れていたから、余計賑やかに感じているのであろうか。
疑問は王宮にて氷解した。
「大道芸人の一団が到着したそうです」
そう言う兵士の顔は緩んでいる。たしか、妻子があるといつか聞いた。連れて行く約束でもしたのかもしれない。
「それであの空気だったのか」

シャプールが実際に件の一団を見たのは、それから数日後、城壁の外で馬を駆けさせていた時のことだ。頬を切るような冷たい風が吹いていた日、空はよく晴れていた。
「今夜はきっと冷え込むな……」
応えるように頭を振る馬の頸を、労るように平手で軽く叩いてやる。
早駆けで上がった息を整えていると、勢いよく鞠が転がってきた。鞍を降り、鞠を追いかけてきた子らに渡して、そこでようやくシャプールは見慣れない人々がいることに気づいた。
昼下がり、いつもは子どもたちが駆け回っている広い空き地に、人と物とが集まっていた。どうやら大きな天幕を張ろうとしているらしい。銅色あかがねいろの髪をした青年が鉄の杭を何本も抱えて幾度も向こうへ行き来している。動いていたら暑くなったのか、それとも大人の真似をしたいのか、袖を肩までたくし上げた子どもが太い縄を地面に引きずりながら駆けていく。そのあとを追いかける白髪の女性は色とりどりの美しい布を抱えながら何か声をかけている。
まさに殷賑というさまがふさわしい。
シャプールは目を細める。だが、おそらくこの一団の芸を見に来ることはないだろうと、どこか冷めた目で見ている自分がいることにシャプールは気づいていた。

翌日、王都の南門前あたりを歩いていると少し離れた場所から悲鳴まじりの鋭い叫び声があがった。広場の方角からだ。
「なにがあった?」
駆けつけて野次馬のひとりに問いかけると、道脇に放り出された空の檻が指差された。
「獣が脱走したのか」
遠巻きに取り囲む人の輪を掻き分け、混乱の中心地に体を乗り入れたシャプールは不思議な生き物を見た。
獅子というほど大型ではないが、犬猫よりははるかに大きく、しかもすばしっこそうだ。大勢の人に囲まれ、興奮から息を荒げて毛を逆立てる獣がそこにはいた。
どうすべきか。檻に入れられていたのなら誰かの所有物である可能性がある。迂闊には傷つけられない。なるべく圧をかけないようにそろそろと近づきながら悩んでいると、近くにいた青年が動いた。その動きに弾かれたように身を翻して獣が走り出す。短く舌打ちをして、シャプールは獣と青年を追った。
広場を抜けると丁字路になっている。もう少し精確に記述すれば、丁の字を左に九十度回転させたような形で、壁に沿ったまっすぐな道と、中心地へ向かう通りが合流しており、今二人と一匹はその合流地点に差し掛かろうとしていた。
青年は壁に立てかけられていた木の角材を数本手に取り、一本を低く獣の足元へ、もう一本を弧を描くように高く投げた。それが地に落ちる前に、青年の足は既に進路を変え中心に向かう通りに向かっている。
目の前に角材を落として獣の進路を強引に変更させ、先回りするつもりか。青年の思惑に思い至ったシャプールは内心驚嘆する。
若い牡鹿のようなしなやかさと俊敏さでもって迫った青年は、獣の前脚を払って地面に転がしてからさっと覆い被さり、腰の帯を解いて獣の口を縛った。
わっと辺りから歓声が上がる。調子の良い王都の住民たちは捕物を楽しんでいたようだ。やんやの拍手喝采の中心で立ち上がった青年が戸惑ったように後ろ頭を掻く。
「お見事。お陰で市中の混乱が最小限で済んだ。追って使いを遣ろう」
そう声をかけるとやや安堵した様子で、いえ、とはにかんだ。

「服装からして兵士ではなさそうだが、軍属としても差し支えない身のこなしだったな」
諸々の処理を終えたシャプールは土壁に凭れかかって腕を組んだ。
いくさが無くとも兵は駆り出される。主に治安維持のためだ。そんな時、あのように状況判断が早く、その場にある物を活用してことを収められる人物はなかなか重宝する。彼は見込みがあるどころの話ではなかった。剣を振ったことがなくても、あの動きなら暫くすれば身につくだろう。
そういえば、あの銅の髪、もしや大道芸人の一団で見た――

『よくやったな、ファルハーディン!』

斜向かいから聞こえてきた言葉に勢いよく顔をあげて振り向いた。
薄い人垣の奥、あの見事な捕物を演じた銅の青年が、歳上の同業者らしき人物に肩を抱かれ、ぎこちない笑みを見せていた。
狼に育てられた者ファルハーディン?」
知らず口から漏れていた声が届いたのだろうか。澄んだ黄金色の瞳と目があった。ただそれだけだった。青年は不審に思ったのか少し眉根をよせて目を逸らし、何事も無かったかのように、同業者と人混みに紛れて消えた。
捻っていた首を戻して歩き始めたシャプールだったが、完全に意識は先ほどの言葉に囚われていた。

あの夢には続きがあるのだ。あれは現実にあった出来事であるので。
息が凍るような冬山にいる。母が、父が手を付けた奴隷の女とその子をこの山へ置き去りにさせたと聞いたからだ。ここまでは彼女らを連れてきたであろう人物の足跡を辿ってきた。だが、それももう消えかけている。

視界の端に不自然なふくらみを捉えた気がして足を止めた。直感を無視してはならないということには気づいている。きっと今、おのれは何かを見たのだ。そう信じて辺りを見回す。
――いた!
木の陰に人の形をしたものが倒れている。おそらく倒れた木の幹を風除けにしていたのだろう。そのために見つけるのが遅れてしまった。
頼む、生きていてくれ。そう思いながら駆け寄った。
馬をおりた自身の足下に見えるのは、薄衣の女性。脈を確かめるため、手袋を引き剥がすように乱暴に外し、女の首元に手を伸ばした。ぞっとする冷たさに顔が歪む。
そうだ、子どもはどこに? 薄衣の内には隠すような余裕はない。体を転がしてその下を確認しても見当たらない。では、どこへ? 手がかりを見落としてはいないか、左右へとすばやく視線を走らせた。谷に向かう斜面、その茂みにくすんだ生成色の布を見つける。手に取るとそれは首巻きだった。どうやってか移動したのだろうか、そう思い足下に目をやった。目に入ってきたのは、複数の獣の足跡とどこかへと続いている「何か」を引き摺っていったような跡だった。
慌てて跡をたどったが、次第に強まる風雪と、容赦なく帳を降ろす闇に帰参を余儀なくされ、その日の探索は中断した。十分な準備もなく、食糧と水、毛布だけで冬山の一夜を過ごすのは余りに危険な行為だとわかっていた。そして、おのれが容易に命を落としてはならない存在であるということも。
かたく拳を握りしめた。手に持っていた首巻きがぎり、と軋んだ音を立てる。
命に貴賤があるとは思いたくない、だが、生きているかわからぬ者のために懸けられるものではないと、頭の片隅の冷静な自分が意見する。間違いではない。この命はパルス王家に捧げるものである。そして家を継ぐものであり、それは長男である自身が生きていれば事足りる。彼がいなくとも家は続くのだ。
瞑目し、拳を地面に叩きつけた。赦してくれとは言わない。怨んでくれていい。いま、おのれの命かわいさに此処から離れようとしているおれを、怨んでくれて構わないから、どうか生きていてくれ。俯いて食いしばった歯の隙間から白い息が洩れた。
凍り付いて硬くなった女の体をなんとかして鞍の後ろに乗せ、腑を何度も刺されるようなはげしい後悔に苛まれながら山をおりた。覆い被さるように迫る闇から逃げるように駆ける。不甲斐なさに奥歯が割れるほど噛み締め、手綱を掴む手は知らず知らずのうちに掌に爪を突き立てる。
弟ひとり救えずして騎士が名乗れるものか。必ず明日、日の明けない内から探すから、それまで、どうか。
その後、太っていた月が痩せ細るまで毎日山に入ったが、結局子どもを見つけることはかなわなかった。
獣に骨まで綺麗に食われて、きっと冷たい雪の下だろう。
暖炉に火の灯った暖かい家の中で、そう誰かが口にするのを聞いていた日。その日シャプールは、弟・イスファーンの命を、諦めたのだった。

もしや。
そう思うことをやめられなかった。もしかしたら彼は「弟」なのだろうか。あの日見つけることのできなかった幼児は生きて今日まで育っていたのかもしれない。
だが、それなら。おのれは彼を山中に置き去りにさせた母と、同じ仕打ちを彼にしたと言えるのではないか。その考えが浮かんだ瞬間から心臓が逸る。背中に冷たい汗が伝うのを感じていた。
その日のうちに諜報に長けた配下を彼のもとへ向かわせた。確かめねばならなかった。知らぬふりはできそうもなかった。
帰ってきた兵士は報告する。
「彼は確かにファルハーディンと呼ばれておりますが本名は判明しませんでした。というのも、彼は幼児のころに一団が山で拾った子どもであり」
そこで彼は少し言いよどんだ。
「それまでは獣と一緒に暮らし育った、と……」
信じられぬ、と考えているのが手に取るようにわかった。
「それゆえパルス語の簡単な日常会話程度しかできぬと聞きました」
あの日、もっと探していれば。獣同様の生活を彼に送らせてしまった。今からでも手元に戻すべきだろうか。シャプールは思案する。
今より良い身分を与えてやることはほぼ確実にできるだろう。だが、それは彼の今の居場所を取り上げることと同義であり、さらには落胤と呼ばれ蔑まれる可能性もある。そもそも母は良い顔をしないだろう。あるいは既に忘れ去っているかもしれぬ。もう何年も前に追い払ったはずの子が今更になって帰ってくる。彼女がどう遇するかは想像に難くなく、つまるところ彼にとっての利益は多くない。
だが、それでも。それでもなにかせずにはおれない。この感情は、罪滅ぼしからきているのだと、全く自分本位で自分だけ救われようとしているのだと、シャプールにはわかっていた。

シャプールは後日、正式にひとりの使者を向かわせた。先日の捕り物の一件を見て兵士として使えるのではないかと、朝議にて推挙したのだ。
流れの一団から引き抜きという異例の事態にいくらか王宮はざわついた。しかもそれを言い出したのがシャプールとあって、様々な噂が飛び交っていた。曰く、「お堅い」シャプール卿の隠し子だ、いやいや寵童だ、生き別れの兄弟だ。
そのどれもをシャプールは積極的に取り沙汰しなかったし、認否もしなかった。されど、派手な人気こそないものの謹厳で篤実と評判のシャプールゆえに、噂はすぐに下火になった。
この時ほど自らの普段の行いに感謝したことはなかった。
どういうわけか市井に立ち現れる噂というのは不思議なほど本質をとらえていることがままある。噂を認めても認めなくても、シャプールだけでなく彼を巻き込んでおおごとになってしまうだろう。それを彼は恐れていた。
だから、団長にシャプール自身の庫からいくらか金を出したのは、やはりどこか後ろ暗さがあったのだろう。
独り身のくせに派手に遊ぶこともしない質素倹約の権化、シャプールには痛くもない額であったが、その話を聞いたクバードなどは豪快に顔を歪めていた。
「そこまでするほどのことか? 事実無根なんだろ」
「何事にも筋は通すべきだ」
「筋、ねぇ……」
隻眼の偉丈夫は顎髭を撫でながらじっとりとした目を向けた。
「ま、おれには関係無いことだが……あれだな。素直さというものが少しはあったほうが可愛げがある」
「何の話だ?」
「さてね」
言うだけ言って男は立ち去った。
そんな会話からひと月ほど経ったある日。入隊後に行われる訓練に青年は耐えきった。季節はまもなく春になろうとしていた。
彼は入隊前から身体能力において多くの将から将来を期待できると噂になるほどだったが、言語能力に瑕疵ありとのことから、歩兵に配属されていた。奴隷身分ではなかったが、馬を持っていないこともまた理由の一つだった。将校士官級でなければそこまで複雑な指示を理解する必要はない。戦太鼓などの合図を間違えずに覚えておけば大抵やっていける。
配属されたのはガルシャースフの隊である。自身の隊でないことに思うところが無いではなかったが、シャプールは大きく吸った息を細く長く鼻から抜いたのみで配置については口を噤んだ。
特別会話を制限されているなどということはないし、麾下ではない兵士と話すことも稀ではない。言い訳のように言い聞かせて、シャプールは兵士たちの宿舎に向かった。
夕暮れが迫っていた。喧騒の中をひとり逆流するようにすり抜けて歩く。少し湿った、青苦い草木の香りが鼻先を撫でて流れていった。
「おお! また当たったぞ!」
「これで何連続だ? 五? 六?」
歓声は兵舎の外、敷地に作られた調練場から聞こえていた。こちらに背を向けて誰かを取り囲んでいるようだ。壁に向かって「当たり」、ということは弓矢の鍛錬だろうか。
中には入らずしばらく入り口から眺めていると、人波がだんだん捌けてきて中心にいた人物が見えるようになる。
シャプールはこれ幸いとばかりに銅色の髪の持ち主を無遠慮に眺めた。青年の体躯はひょろりと細長いと形容するのが適当であるように思われる。筋肉がないわけではないが、肉付きが悪い。一撃に重さをかけるより、俊敏さに重きをおいて手数で稼ぐ戦い方になるだろう。
あらかた人の捌けたのを見計らってシャプールは調練場に足を踏み入れた。
近づく微かな足音を聞きつけたのか、声をかける前にファルハーディンはぱっと振り返った。
「あなた、だれ?」
精悍な顔立ちをしている。背丈はシャプールよりいくらか低いが、齢を考えればまだ伸びるだろう。
「入隊を決意してくれて有り難く思う。おれはシャプールという」
三歩ほど離れた位置で立ち止まり、シャプールは右手を差し出した。
「シャプール……きれいな音」
右手は虚空を掴んだ。はじめての反応に調子を乱される。んん、と咳払いをして手を引っ込めると、「あ、」と青年が気をつけの姿勢をとる。
「はじめまして。おれは、ファルハーディン。そう呼ばれてます」
「正しくは二度目まして、ということになるかな。先月、獣捕りの件で世話になった」
ファルハーディンはああ、と生温い声を出したあと取り繕うように「はい」と返事しなおした。
「そこまで畏まらなくていい。あまり、その……得意ではない、と聞いている」
「助かります」
少し歩こう、とシャプールから誘って二人は城下を巡った。王都案内のつもりも多分にあって、案外おれは兄らしいことがしたかったのだな、と突然気づいてこそばゆくなる。
そうこうしているうちに、話題は故郷の話へと流れていた。
「おれの領地は……山が近い。紅葉が美しい土地だ。おぬしは何か覚えているのか?」
青年は少し首を捻ってから申し訳なさそうな顔をした。
「たくさんの雪、木、狼のあるところ。と団長から聞いた」
「ファルハーディン、だったな。由来を訊いてもいいか」
知っているくせに、その原因を作った張本人のくせに、そんなことも訊いた。おのれの面の皮の厚さに今ばかりは辟易したが、とにかくなんでも話したかったし聞きたかったのだ。どうにか空隙を埋めようとしたとも言える。そうして完全に日が落ちるまで、二人は会話しながら漫ろ歩いた。

もと居た兵舎の入り口まで戻ってきたところで、シャプールは「では、」と声の調子を変えて向き直った。
「そろそろ夕餉の時間だろうから、この辺りで失礼するとしよう」
互いに挨拶を交わして、背を向けて幾らか行ったところで張り上げた声が届く。
「あなたとは、これからもっと仲良くなる」
シャプールは振り返って負けじと声を張る。
「それは直感というやつか?」
「直感、というのはよくわからないけど、」
なんだかそんな気がする! そう言って彼は闇の中でも煌めく黄金の目を細めた。

また、ある日。シャプールが市場で食糧を買い込んでいるところへファルハーディンが声をかけてきた。
「どこかへ行くんですか?」
「ああ、数日のうちに騎馬隊の野戦訓練にな」
すると彼はすんと鼻を鳴らしてから不思議なことを言った。
「今日明日はやめておいた方がいいかと」
「ほう、その心は?」
「?」
顔じゅうに疑問符を浮かべているのを見てとって言い直す。
「どうしてそう言うのだ? なにか、その考えに至った理由があるのではないか?」
ファンハーディンは得心がいったという顔をして、空を見上げて「雨のくる匂いがします」と言った。
「それに、蹄の跡がいつもより深かったので」
これは。シャプールはしばし手を止めて、ファルハーディンの顔を眺めた。
「その情報はありがたいが、訓練を止めることはできない」
「晴れの方が危なくないと思う、ますよ」
「それはそうだが、天気がいくさに考慮してくれるわけもないのだから、我ら兵士はどんな天候にも対応できねばなるまい」
「……たしかに?」
「備えあれば憂いなし、というやつだ」
わかったようなわからないような顔をしているファルハーディンがなんだか愉快で、シャプールは気分が上昇するのを感じていた。
「それよりも、おぬしはまず、よく食べて体を作るところからだな」
持っていた荷の中から肉と果物を取り出し、青年に手渡す。
シャプールは騎士階級の生まれである。ゆえに、人々を守り、国を守るため強くあろうと考えるのは当然のことだった。そのためにすべきこと、つまり鍛錬や、それ以前の体調管理ということは当たり前のように身についていたし、ファルハーディンにもそうあれと説いた。それが、強くなるための第一歩なのだと。

「どうして、強くなきゃいけない、の、ですか」

だから、心底不思議そうな顔をしたファルハーディンにそう問われたとき、シャプールはすぐさま答えを返すことができなかった。
篝火の点在する回廊でのことだった。夕刻、偶然に出会ったファルハーディンは、まだ少しぎこちなさの残る礼の形を示してからシャプールに歩み寄った。
彼が歩いてきた方向からすると、先ほどまで練兵場にいたのだろう。
入隊前からの顔見知りということで、シャプールにしては珍しく、新人のファルハーディンにはそこそこ懐かれている。たいてい、物腰柔らかに見えるサーム卿や、がさつで大雑把な――最大限好意的に述べるならば気風のよい――クバード卿などが新参には話しかけやすいのか、よく懐かれているのを見かける。それに引き較べると、いつも眉間に谷間をつくって渓谷を刻んで、それに見合った想像通り厳しい性格のシャプールに、積極的に声をかけてくる新人は多くない。そうして懐かれればやはり可愛いもので、だからシャプールは世間話のつもりで言ったのだ。食べているか、身体は資本だ、強くなるためにはまず食べることだ、と。
「強くあらねば命を落とすし、死ねば国を守ることができないだろう」
「守る。何から? 何を?」
「王や国民、家族を、外敵からだ」
そう言ってからシャプールはかすかに眉を寄せた。目の前の青年が芸人の一団に拾われ、本当の血の繋がった家族というものを知らないことを思い出したからだ。
「他の国の人なら殺して良いの?」
案の定、ファルハーディンはそう反駁した。それは誰しもが一度は突き当たる問いであり、これを割り切れない人間、答えの出せない人間は兵士になっても長続きしないとシャプールは思っている。
「他国の人間だからといって赦されるわけではない。が、主義の違うものどうしが話し合いで解決できない以上、いくさという形で決着をつけることになる。負ければ喪うと思えば、守るために殺す、という方法にも納得できる。少なくとも、おれは」
「……食べもしないのに殺すのは無駄だと思う」
自然の摂理じみたことを言ったきり、ファルハーディンは黙り込んだ。風に銅の髪を遊ばせるままにして、どこか遠くを見る目をしている。
守るべき家族、というものの実感が湧かないのだろう。民草というぼんやりとして抽象的な総体なら余計に。
軍とは守るべきものを持つ者たちの集まりであると思う。兵士一人一人の守りたい人たちの集まりがつまり国民であり、国なのだと、いつか知ってほしい。そのために、彼に守るべき人ができてほしいと願った。それが強さの根源だとシャプールは信じている。
それからも二人は何度か言葉を交わした。その度に「守りたい人はできたか」と訊いては「またその質問ですか」と笑われたり苦い顔をされたり、時には鬱陶しがられたりした。感情を見せてくれることが嬉しかったし、会うたびどんどん言葉が上達しているさまを見守るのは至上の歓びだった。
シャプールにしては珍しく、わかりやすく可愛がったと思う。何しろ、麾下たちの間でも話題に上ることがあったくらいなので。
誰かが「おまえら見てると兵卒と上官ってより兄弟みたいだよ」と面白半分にからかった。酔いに任せて喜んで、笑いすぎたふうを装って一粒だけ泣いたが、それはシャプールに弟がいたことは公に知られてはいないからだった。ほんとうにほんとうのきょうだいなのだと叫びたかった。

朝議の場は物々しい雰囲気に包まれていた。万騎長が総員集められ、整列している。場が静まり返ったのを見計らって、宰相が文官の列から進み出、一礼をしてから書簡を広げそこに書かれた文面を読み上げる。パルス暦三一五年のことだった。
「申し上げます――」
ここ数年、しばしばパルスに侵攻してはその度に撃破され侵攻を阻まれていたトゥラーンが、シンドゥラ、チュルクの二国と同盟を結び、またしても侵攻してきた。これに対しアンドラゴラスは傲然と出兵を宣言した。
今回シャプールの隊にはサームと共に王都の留守を預かる旨の下知がくだった。といっても遠征というほど行軍するわけでもないし、パルスの敵というだけの繋がりの三国同盟は一枚岩とはいかないだろう。そう思っているのはシャプールだけではないようで、不穏な空気はあれど、心配や不安という感情は誰の顔にも見えなかった。
「此度の出征はガルシャースフ卿、サーム卿にお願いしたく存じます」
二人は剣環を鳴らして進み出て、膝を折って拝命した。
「心得た」
「承りました」

「イスファーン」
思わず口にしてからしまった、と思った。その名前を持つ人間はすでに死に、今ここにいるのは彼とは別の人生を歩む者だ。
「? おれはファルハーディンです」
怪訝な顔をしたファルハーディンが振り向いて律儀に訂正する。
「後ろ姿が似ていてな。間違えた」
彼はそうですか、とひとつ頷いてから首を傾げた。
「なにか御用でしたか」
「渡すものがあってな」
手を出せ、と言いつつ懐を探って取り出したのは、組み紐に碧い石のついた髪留めだった。いや、本当は探らずともすぐに取り出せた。だが今すぐに渡したいと張り切っているように思われたくなくて、そんな瑣末で些細な、小細工ともいえない演技をした。
「お守りだ」
おれが初陣の時に家族から貰った余りだ、ということは敢えて黙っていた。
ファルハーディンは石を光に翳して矯めつ眇めつしている。
「願掛けのようなものだ。その髪を纏めるのにでも使ってくれ」
一団から離れさせてしまった負い目もあった。兄らしいことをしたいという欲もあった。兄弟だと喧伝してまわりたい気持ちもあったのかもしれない。そんなごちゃ混ぜの感情を乗せた視線を黄金色は柔らかく受け止め、笑った。
「ありがとうございます。きっと手柄を立てて帰ってきます」
「初陣は生きてかえってくることが何よりの武功だ。無理はするなよ」
「はい。推薦に恥じないはたらきをしてみせますから、待っていてください」
「はは、活躍を聞くのが楽しみだ」
腕を伸ばして男の肩を二度ほど軽く叩いた。こんなにも何気なく短く軽いふれあいが、二人のはじめての接触だった。握手は悪気なく流されたのだったな、と思い出してシャプールは微苦笑した。

恩賞も出るだろうが、個人的に何か贈ろうか。そう思って市場をうろついていた時のことだった。戦況は有利に進んでいるとの報は早馬によってすでに王都に届いており、いつにもまして空気が騒々しい。らしくもなく贈り物など見繕っているのは、シャプールもまたその雰囲気に当てられたせいだろうか。
苦笑する彼の耳に、呼ばわる声が聞こえた気がしてシャプールは顔を上げた。ひとりの兵士と目が合った。
かつてファルハーディンについて探らせた男だ。その人物がシャプールの姿を見るなり駆け寄ってきた。妙な予感に心臓が早鐘を打ちはじめ、周囲の音が膜を挟んだように遠くなる。
「お耳を。――――」
肌が粟立つ。耳鳴りがする。脳よりも先に体が、理解していた。震える左手を抑え付ける。頭は理解を拒んで硬直し、シャプールから一切の感覚を取り上げた。

最初に、喧騒が耳に入った。馬蹄の響き、駆け足の音、鎧の擦れる甲高い軋み、悲鳴と喊声。次に視界が開けて状況が目に入ってくる。目の前には脚を負傷し、体を引きずるように歩いているパルス兵がいる。男は何かに躓いたのか、顔から勢いよく倒れ込んだ。
ファルハーディンは一度その脇を通り過ぎたものの、後ろ髪を引かれるように立ち止まり、僅かな逡巡ののち負傷兵のもとへ戻ることを選ぶ。彼の頭にあったのはひとりの男の顔だった。
助け起こそうとしているところに敵兵数人がやってくる。距離はあった。ひとりでなら逃げられた。だが、彼はそれを選ばなかった。
安心させるように仄かに笑みを見せてから、負傷兵の前に立ち、剣を引き抜いて敵兵を迎え討つ。
元々の身体能力と動物的な勘でしばらく凌ぐが、防戦一方を強いられ、じりじりと踵は後退していく。そのうち雑兵一人に手間取っているのに苛立ったか、敵の一人がファルハーディンに土塊を投げつけた。ファルハーディンが須臾の間視界を喪っているところへ、「ひぃ!」と背後で悲鳴が上がる。思わず振り向いたファルハーディンの霞んで痛む眼に、鋭い光が差し込む。
――鋼の輝きだ。
まもらねば。
無意識に伸ばした右手が握った刀ごと飛んだ。鮮血がばたばたと飛び散って砂地を赤黒く染め、一瞬ごとにその範囲を広げる。獣じみた咆哮を上げそうになるのを必死に歯を喰いしばって抑えながら、腰の小刀を片手で引き抜き、敵の内腿を切り裂いた。
ぐっと狭まった視界の中、兵がどうと倒れ伏すのを見た。
脂汗がにじむ。冷たいのか暑いのかわからない傷口を抱えて、見ているのに見えていないような散漫な目で、向かってくる敵兵を他人事のように見ていた。こんな小刀じゃ幾らも保たない。剣は右手と共に数ガズ先にある、それより負傷兵の剣の方が近いか。思わず伸ばした右腕にその先が無かったのを見て不思議な気分になり――電撃の奔るような衝撃と鉄鏝を押し付けられたような耐え難い痛みが一挙に襲ってきてそれから電源が落ちたように全てが掻き消えた。
なにも見えない。ただ漆黒だけが広がっている。
「はは、これ、が、おれの、 手柄  か 」
生きて還れなくて悪いなぁ――あにうえ。

自分はいま目を閉じているのだ。だから目の前が昏いのだと気づいて、シャプールはゆっくりと瞼を押し上げた。
最初に視界に入ったのは心配そうにこちらを見る配下の顔だった。苦心惨憺としながら、平然とした顔を作ってみせた。
遠ざかっていた喧騒が戻ってくる。決して干戈の音などではない。人の声、足音、風韻。それらがシャプールに、すべてが終わった後なのだと突きつける。その場におのれは居なかった。
指先がひどく冷たい。まるで氷を握っているかのように。
彼は、ファルハーディンは、直感に反した行動の結果、命を落としたのだ。他者を庇うという行動、他者を守るという、シャプールの教えに従って。
目は乾ききっていた。泣く権利など無いと思っている。なにせ軍に入れようと言い出したのは自身なのだ。いつかこうなることは覚悟して然るべきであった。
結局、徹頭徹尾シャプールの独善だったのだ。
救いたいなどという大義名分を自分でも信じきって、罪滅ぼしなどという耳ざわりの良い言葉に酔って、その実、ただ手元に置いておきたかっただけだった。なんと身勝手極まりない。
大道芸人のままであればもっと長生きできたかもしれない。

それからシャプールは、装いのどこかに必ず白を身につけるようになった。誰かに問われればそういう気分なのだとはぐらかすが、シャプールに報告をもたらしたかの兵士や一部の聡い者は気づいている。
二度も死なせてしまった弟。一度はあの冬山でイスファーンとして。そしてもう一度は戦場でファルハーディンとして。歴史に残らず、誰の家族としても公に認められず、骨さえ砂に埋もれて風化する男。風に翻る白布は、兄として弔うことのできなかったそんな彼への、せめてもの弔意をこめた喪章だった。

 

深いところから、一気に水面に引き上げられるように目が覚めた。目の前にあるのは見慣れた幕舎の天井。首の後ろを冷たく湿った手で撫で上げられたように、じっとりと不快な汗をかいていた。吐いた息が白く可視化され、すこしの間漂ってから消えるのを見ていた。
ここが冬山だから、あんな夢を見たのだろう。いやに現実感があって、夢との境界が曖昧である。いまでも不安だ。イスファーンは救えたのだと、今すぐ確認しにゆきたい。
シャプールは細かく震える手をどこか遠い気持ちで見つめた。

イスファーンを、王都に連れてきたことがある。シャプールの生まれた山がちなあの領地は、風光絶佳な土地ではあるが鄙びているとも言える。年頃の青年には退屈だろうと考えたのは、自身が同じ歳の頃、そう思っていたからだ。
たまには遊びに連れ出してやろうと、イスファーンが十七になる年に彼を王都に招いて、大道芸を一緒に見た。
夢の中では見なかったそれ。見る気になれなかったのは、シャプールが独りだったからなのだろう。
ちゃんと、目の届くところで死んでやりたい。強くそう思った。
手で触れて、その冷たさを。声をかけても、もう二度と起きないのだと。おれはきちんと突きつけてあげられるだろうか。それだけが気がかりだった。
勿論、おのれは戦士ゆえに、穏やかな死とは程遠いとは思うけれど、それでも願わずにはいられないのだ。あの子の親代わりだから。
天幕の外に出た。
空は群青。背後の方は暗く深い色をしていて、正面は淡く、滲み出るような朱色が混ざっていた。
足元は銀雪。夜の間に降り積もった雪が空の色を吸って月白に輝いている。
「綺麗だ……」
思わずつぶやいて膝を突いた。
彼は知っているだろうか。母親の命を奪った自然が、こんなにもうつくしいのだということを。
すべてを教えてやれるなどとは思っていないけれど、人生をかけて教えたいと思っている。そのためならおのれの死すらも利用しよう。きちんと寂しいと、悲しいのだと、泣けるようにするために。その涙が凍らせた感情を溶かすのだから。そのために目の前に屍を晒してやらねばと思うのだ。
イスファーンには、死んだもののために生きてほしくなかった。夢の中の自身のように、後悔にまみれて生きていかないように。自分のためにその時間を使ってほしい。
そのためにちゃんと、猫のように隠さずに。どこか遠いところで、なんていう希望を持たせずに、完膚なきまで徹底的に。そんな最期を願っている。
順当に行けば自分が先に逝くだろう。その日が、願わくば、なるべく遠ければいいと思う。
無意識のうちに組み合わせた手は、祈りの形をしていた。

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