王宮怪談あるいは犬馬の労 - 2/3

「そういえば最近、出るらしいぞ」
空気の澱んだ執務室の最奥、ほかより一段高い場所にある卓で作業していた君主が、唐突にぽつりと零した。突然何を、と手元から顔を上げた勇将たちの顔色は優れない。それもそのはず、時刻は深夜、外は静まりかえり虫の声さえも聞こえない。戦場ならば寝ずの番も丸一日駆けることも厭わない彼らだが、部屋に押し込められ大きな体を小さくして何日も過ごすというのはかなりの苦行であるようだった。
「出る、というのは何が?」
ここぞとばかりに話題に乗ったのはギーヴだった。美男子の呼び声高い彼もまた、目元をくすませている。心なしか肌艶も良くないような。
「幽霊だ」
反応があったのが嬉しかったのか、純粋さのにじむような笑顔で我らが王が即答した。
「まさか、ターヤミーナイリ……」
「そこは今回は関係ないぞ」
「あ、そうですか」
過日の凄惨な光景を思い出し、声を潜めつつ問うたエラムの憂愁を、アルスラーンはばっさりと断ち切って続ける。
「どういうわけか、ここ最近、急にそういう噂が出回りはじめたのだ」
へぇ、とギーヴが生返事をする。口から生まれてきたと言われる彼もまた、このところの過忙に雑談をする程度の気力も削がれていた。
「そういうわけで、誰ぞこの異変を解決してくれようという者はおらぬか」
そんな場にあってなぜか一人生き生きとしているアルスラーンを、眩しいものを見るように眺める諸将一同。
「特に立候補する者が無ければこちらで指名させてもらうぞ」
操り人形のようにのろのろかくかくと頷く男たちに、アルスラーンは笑顔を向けた。
思えば周辺諸国にもその名を轟かせる智謀の軍師が口を挟まなかったことに、彼らはこの時点で気付くべきであったのだ。

 

国王陛下直々に怪異調査隊に任命されたのは、ギーヴ、ジャスワント、イスファーンの三人であった。任命ののち一旦執務室を退室したかれらは、各々身支度を整え、王宮の入り口に集合していた。
美しいが光源としては全く役立たずの繊月が宙に浮かんでいる。ぬるい風が吹き付けて蝋燭の火を揺らした。
手燭はジャスワントが、異変をまとめて書き付けた羊皮紙はイスファーンが持っている。
「それで、なんだって?」
イスファーンを挟んで二人が手元を覗き込む。
異変は三種類であった。
「ある場所を通ると突然体調を崩す……やけに見られている気がする廊下……地面に光る目……」
イスファーンが読み上げる。
「地行術ガーダックとかいう術の話を聞いたが、それではないのか?」
半信半疑の様子でジャスワントが地面を指さす。つられた二人がきょろきょろと地面を見渡すが、特に何も見当たらない。
「たしかにそんなこともあったらしいが、そこまで容易に王宮に忍び込まれてはたまらんな」
「だがまあ、ペシャワールでも魔道士絡みの騒ぎはあったことだし……」
三つ目は魔道士ということで一応の当たりをつけておいて、ギーヴは紙上に指を滑らせ、円を描いて前二つを指した。
「陛下は幽霊と言っていたが、そもそも幽霊なのか、これは」
「いや、どうだろう」
「明確に『見た』というわけではないらしいな」
三人は顔を見合わせる。
「……行ってみないことには始まらんか」
「そのようだ」

羊皮紙を裏返すと、異変のあった場所に印と補足を書きつけた手書きの王宮の地図が現れた。筆跡からするにナルサスのものだろう、とギーヴが言う。
「あの御仁、どうして図は描けて絵は描けないのやら」
さぁ、とイスファーンが首を捻る。
「両方下手、というなら納得もいくのだが」
「パルスの芸術とはみなああいうものかと思うところだった」
「芸術とはファランギースどののことだ。覚えておけ」
ぴっ、とジャスワントに向けて人差し指を向けたギーヴをイスファーンが嗜めた。
「あそこまで行けばあながち嘘とも言い切れんが、誤りを教えるな」
理想だけを集めて固めたような彼女の容姿は、たしかにひとつの極致にあると言えるだろう。
「だいたい、それでは彼女が死んだらパルスから芸術が無くなることになる」
ギーヴが鼻を鳴らした。
「わからんやつめ、そのためにおれ吟遊詩人がいるのだ。姿は無くともうたは残り続ける」
「彼女が美しいのは知っている」
このまま放っておけばいつまでも芸術談義に花を咲かせていそうな二人の会話に、ジャスワントが割って入る。
「さすがにナルサスのアレ……が特殊な例だってことももうわかっている。大丈夫だ」
ジャスワントは緩く首を振った。それより、と肩をすくめて続ける。
「そろそろ出るべきだ。遅くなれば明日の業務に障る」
「それもそうだな。近いのはこの『視線を感じる廊下』か。ここからぐるっと回るのでいいか?」
その発言を聞いて声を上げたのはギーヴだった。かれは一人一つ、事に当たるつもりでいたらしい。
「イスファーン卿は誰かが一緒にいないと歩けないんですか〜? それとももしかして、ひとりじゃ怖い、とか?」
わざとらしく間延びさせた語尾は煽るためだろうが、慣れているのか、わかりやすい煽りに乗せられることなく、イスファーンは相対する。
「おぬしをひとりにしたらサボるに決まってるからだ」
「陛下直々の采配を疑うと?」
「普段の行いを省みてから言え」
またしてもぽんぽんと行き来する言葉の応酬を聞きながら、ジャスワントは二人についての認識を改めていた。不仲とばかり思っていたが、存外気のおけない仲らしい。
応酬を中断してふぅ、と息をついたイスファーンがジャスワントに目配せをする。
「相手をしても疲れるだけだ。待たせたなジャスワント、行こう」
「ああ」
さっさと歩き出すイスファーンの後にジャスワントが続く。
王はなんとも纏まりの悪い人間を集めたものだ。よくぞここまで、とジャスワントはいっそ感心すらしていた。「三」というのは安定した調和をもたらす数のはずなのだが、それは感情を持たないものたちの世界に限られるのだということを痛感した。だがかれらを纏めるよりも、早く終わらせたい気持ちがジャスワントに足を踏み出させたのだ。
やんわりと輪郭に茜色を滲ませて、影が遠ざかっていく。
「はぁ〜真面目ですこと」
ぼやきながらギーヴは歩き出した二人の後を追った。

「シンドゥラで鉄板の怪談はあるのか?」
そう水を向けたのはギーヴだった。
「ある。聞くか?」
「話してみろ」
「……男がいた。太陽はとうにその役目を月に明け渡し、地平線の向こうへ身を隠している時間帯。家路を急いでいると、辻で女に声をかけられた。すわ客引きか、と無視をして通り過ぎようとすると、女が泣き出した──」
ジャスワントがやや抑揚に欠けた、しかしそのせいでどこか不気味な口調で話し始めた。

 

女の泣き声があまりにも悲痛だったので、思わず男は振り返り、そこで初めて女の姿をまじまじと見た。
頭には真っ白なベールを被っている。その下から覗くのは月光を弾く艶やかな長い黒髪で、その長さは腰をゆうに超えていた。俯いているせいで顔は見えないが、おそらく随分な美人なのだろうと察せられる雰囲気がある。
つい足を止めた男は女に声をかけた。何かあったのか。
「私の婚約者が殺されたのです。実の兄によって……」
よくある話、ではないがきっと誰もが、いつかどこかで聞いたことのあるような筋だ。
弟の美しい嫁を欲した兄が弟を殺してしまう。ちょうど最近まで似たような経緯を持つ国が、王位争いでごたごたしていたような。
今となっては絵空事と笑えない、とギーヴが渋面をつくる。皮肉のつもりなのかとジャスワントの神妙な顔を見やった。そんななか、声を上げる者がいた。
「兄者はそんなことしない」
「はいはい、誰もおぬしら兄弟の話とは言っておらぬだろう」
む、と唸ってイスファーンは口を噤んだ。
「続けるぞ」

……実の弟を殺してしまう人と、一緒にいられるわけがない。恐ろしい。そう思った女は家を逃げ出してきたのだそうだ。行くあての無い女性を夜道に置き去りにするわけにもいかず、男は女を連れて行くことにした。
そうしてしばらく連れ立って歩いていたのだが、不意に男が落とし物をしたことに気づく。家族から贈られた、大事な帯飾りがなくなっていたのだ。途中まではちゃりちゃりと音を立てていたから、きっと道中に落ちているはずだと、女を待たせて来た道を急足で戻る男。
間もなく彼は帯飾りを見つけて戻ってきた。もしかしたら女はいなくなっているかもしれない。そう淡い期待のような想像をしていたが、女は別れた時と同じ場所に佇んでいた。
「見つかって、よかったですね」
にこりと笑って女は歩き出す。しかし男は後を追わない。
その後ろ姿に、男は違和感を覚えていたからである。
──脚の向きがおかしい。
女の小さなつま先が、後ろにいる男の方を向いている。
そう気づいた瞬間のことだった。
ぐるりと、前を歩いていた女の頭が、真後ろを向いた。首だけが、男の方を。
体は依然として前を向いたまま、頭と脚だけがこちらを向いている。
事態の理解が追いつかず、男は呆然と女の顔を見た。
目が合った。
男はそう思ったが、それは正しくない説明だ。なぜなら、眼球があるはずの場所には完全な虚ろがあった。底無し穴のような真っ暗闇が顔面に二つあるだけだった。ぐにぐにと、それぞれが大きくなったり小さくなったりしながらこちらを見ている。
その下には異様に大きい口のようなものがある。刃毀れした刃物で無理矢理割ったような肉色の裂け目が顔を横切り、たらたらと涎を垂らしている。そのおぞましい裂け目から鋭い牙が覗いているので、おそらく口なのだろう。
男は走り出した。足音が追いかけてくる。
あの逆向きの脚で走っているのだろうか。そう思うとあまりの不気味さに全身に鳥肌が立つ。
無我夢中で走り、道を逸れて林の中へ飛び込んだ。自分が今どのあたりにいるのかもわからないほど出鱈目に、めちゃくちゃに走り回っていた。
どれほど時間が経ったのか。いつの間にか追いかけてくる足音は聞こえなくなっている。諦めたのだろうか。そう思った途端、腰が抜けて、男は木の幹にもたれて座り込んだ。
はぁ、とひとつ息を吐いて顔をあげる。するとそこに、すぐ目の前に、ぐにぐにと蠢く二つの闇があった。生臭い息が顔に吹きかかる。
「ひぃっ」
それが男が生涯最後に発した言葉だった。あとはひたすら肉を裂き、骨を噛み砕く音だけが木々の間に響いていた。
翌日、男を探しにきた家人が、道傍に落ちている帯飾りを見つけた。

 

「──エクシという女の幽霊の話だ」
「……それは、幽霊というか」
「化け物?」
言い淀んだイスファーンの言葉をギーヴが補った。
「シンドゥラで夜道に女と会って、家に連れ帰ろうとした男は、だいたい喰われる」
「だとさ、ギーヴ。気を付けろよ」
小突かれたギーヴは、そんなヘマはしないさ、と嘯いて笑った。
「どうだか」
「さて、そろそろ問題の廊下だが」
「視線……ねぇ。それよりさっきから聞こえていた音が止んだ方が気になるんだが?」
途端にゴン、と鈍い音があがる。イスファーンが寸時の迷いもなくギーヴの腕に肘鉄を食らわせたのだ。
「そういうことは早く言え!」
「まぁ、ギーヴ卿以外気付いてすらいなかったのだから、あまり責めるな。それよりどんな音だったんだ?」
またしてもわぁわぁと口論を始めそうな二人を引き離して詳細を聞くと、どうにも不明瞭な答えが返る。
「妙に聞き覚えのある、ありすぎて逆にわからないな……一定の間隔をあけて『たん、たん、』という感じの、おそらく誰もが聞いたことのある……」
「足音?」
「ではないな」
「今は?」
ギーヴが頭を横に振るのにあわせて、耳飾りが大きく揺れる。
「せめて視線とは別件なのか、それとも関連しているのか、わかればよいのだが」
ジャスワントの言葉に、皆ぐるりと周囲を見回した。その中で、視界の隅になにか引っかかりを感じたらしきギーヴが顔を戻す。
ぴたりと動きを止め、猫のように目を丸くしているギーヴに気づいた二人が視線の先を見る。
向かいの外壁。改修を待つばかりで、今は使われていないため灯りは無い。いくら目を凝らしても二人は何も見つけられなかった。
何か見えるのか、イスファーンがそう問いかけようとした時、ギーヴが手を伸ばし何もない宙を掴むような仕種をした。腕を引き戻した男が手にしていたのは一本の矢だった。
「間者か?」
纏う空気を尖らせたジャスワントの質問に、矢を見つめながらギーヴが首を振る。
「いや……。そろそろ諦めて姿を見せたらどうだ?」
そして顔をあげ、芝居がかった動きとともに声を張ったギーヴだが、辺りは静まり返ったままである。時折聞こえる虫の鳴き声と、細い隙間を通り抜けて鳴る風が余計に静寂を際立たせる。
ついにしびれを切らしたイスファーンが「おい、誰も出てこないではないか」と言った直後、
「おぬしらであったか」
突然三人の誰とも違う声が聞こえてきた。
驚き振り返るイスファーン。
無言で腰の短刀に手を伸ばすジャスワント。
そしてギーヴが、手中の矢を声のする方へ投じた。
弧を描いて落ちていく矢。そこへ闇の中から拳が突き出されて危なげなく矢を掴む。そのまま、一歩、二歩。まず足が灯りの輪の中に入る。さらに一歩進んで、ようやく手燭の灯りがその人物の顔を照らし出す。
そこにいたのはゾット族長代理、アルフリードの兄──メルレインその人であった。

知人とわかり、イスファーンがつかつかと歩み寄った。
「こんなところで何をしておるのだ」
「……」
「黙っとらんで素直に吐け」
「おれが言ってやってもいいが?」
ギーヴがゆったりとそう言うと、やっとメルレインは口を開いた。
「鍛錬」
「こんな時間に?」
「こんな時間だからこそ、だ」
「……どういうことだ?」
「さぁ」
ジャスワントとイスファーンは顔を見合わせた。どちらも相手の顔に「わからない」と書いてあることを確認し、ひとりわかった風な顔をしているギーヴへ向きなおる。
「通訳してくれ」
「ジャスワントはともかく、おぬしはパルス人であろうが」
「とはいえ、今のところわかっていそうなのはおぬしだけだ」
なぁ、と再びジャスワントと顔を見合わせると彼も「もう少し補足説明が欲しい」と賛同したので、イスファーンは勝ち誇った顔をした。
「ほらな」
「鍛錬というのが本当であれば、辻褄が合うだろう。つまり、おれの聞いた音は矢が的に当たる音。視線を感じるというのは此奴が見ていたからだ。おおかた立ち去るまで睨んでいたか何かしてたのだろう。違うか?」
ギーヴは片眉を器用に吊り上げてメルレインに視線を送る。
「……合っている」
「この時間帯まで王宮にいるのは兵士ばかりだから、うまい具合に、いやむしろ運悪く? 視線だけを感じとってしまい噂が立ったのだろう」
これで解決、とばかりにギーヴはひとつ手を叩いた。
「なるほどなぁ」
廊下から中庭に向かって身を乗り出していたイスファーンが身体を起こす。中庭を挟んで向かい側にある改築待ちの通路は、人が通らず、かつところどころ障害物や的になりそうなものがいくつもあり、言われてみれば練習にもってこいの場所であった。
「じゃあこちらに向かって矢を放ってきたのはなんだ? 牽制か?」
「その通りだ」
メルレインはそう言ってから、わずかに声の調子を落とした。
「……ほかに誰も見た者はいないな?」
「そう回りくどいのは珍しいな。なにが言いたいんだ」
「──なんでもない。口外するなよ」
そう言って立ち去ろうとする背中に、ジャスワントが生真面目に声をかけた。
「早く寝た方がいい。夜更かしは目にも良くない」

 

「あの〜……あそこ。何かがあるように見えるんだが、どうだろう」
イスファーンが突き当たりをそっと指さした。
「視線を感じる廊下」の原因を究明した三人は、次に「突然体調を崩す」と言われている場所に向かっていた。西と東の塔をつなぐ回廊の途中である。三人の正面に東の塔の入り口があり、その奥、塔の内部に壁に立てかけるように何かが置いてある。
「何かあるな」
「あるのはわかるが、なんなのかはわからん」──なんだこれ、不気味すぎる。
あれほど纏まりがないと思ったにもかかわらず、この時だけは、三将の気持ちが一致していた。
強いて言語化するなら平面に押し潰されて閉じ込められた圧縮型混沌。それが、暗がりの向こうから妙な訴求力を持ってこちらに存在を主張してくる。
人影ならばまだ良かった。幽霊にせよ不審者にせよ、「人」であればなんとでも対処できる。
これはしかし、「何かある」ことしかわからない。ゆえに対処法を考えることはできない。しかもそれが、普段何気なく通り過ぎている場所であるから、余計に嫌だった。
ジャスワントは手燭を高く掲げた。三人の影が長く伸び、不気味に揺れる。
「……近づいてみたら、わかるか」
「頼むぞ」
「おぬしも来るんだよ!」
器用にも小声で叫んだイスファーンは、他人事のギーヴの腕を掴んで、もう片方の手ではジャスワントの背中のあたりをがっちりと捕まえている。
「嫌なら待っていても構わないが……」
「えっジャスワント怖くないのか」
「怖いのか?」
「……怖い」
正直にそう告白したイスファーンは、背後をちらりと見た。見られた方は心底不快そうに眉を寄せている。
「男どもが寄るな暑苦しい!」
「なんだと? おぬし一人で行かせるぞ!」
小声のまま口論を始める二人。しかし掴まれた腕を振り解かないあたり、ギーヴも不気味さを拭えないのだろう。そのまま三人一塊になってじりじりと進んでいく。
「問題ないな。怯えた仔犬殿は一匹で不安かもしれんがね。行くぞジャスワント」
ジャスワントは何も言わず、ただため息を吐いた。
「一人で行けってば。やはりおぬしも怖いんだ、ろう……」
しりすぼみの語尾を宙に残して立ち止まったイスファーンを、ジャスワントが不思議そうに見やる。顔をわずかに仰けて、空気の匂いを嗅いでいるような仕草をしている。
それを見たギーヴがぽつりとこぼした。
「イヌファーン」
「おい、聞こえているぞデーヴ」
横目でじろりと睨め付けた視線を空中に戻して何事か思案する。
「この匂いは、ぐ」「あっ!」
つづく言葉を待って耳をそばだてていた二人は、突如投げ込まれた、この場にいないはずの人間の声に飛び上がるほど驚いた。
「ナルサスさまったらまた出しっぱなしにして」
「エ、エラム?」

死角──塔内部の階段を上がってきたのだろう──から姿を現したのは厨房のあるじ、顔の変わらない唯一の少年、財務の手綱を裏で握る男、王宮内目的地への最短経路を教えてくれる人、等々、陰で色々と肩書きを増やしているエラムその人である。最近は「安売りで必ず見る顔」と言われているのを聞いた。
彼は寝台に敷くような大きな布を手早く広げ、「何か」を覆った。そして何事もなかったように、こちらを振り返る。
「……おや、これは、気づかなかったとはいえ大変失礼をいたしました。こんばんは」
三人が近づいて見ると、布をかけられたそれは肩幅ほどの大きさで、平たい板の形をしている。
「…………見ましたか?」
「なんだその怖すぎる質問は」
ギーヴが引きつった顔でこぼす。三人の返答をまたず、エラムが口を開く。
「この窓から見える風景は、それはそれは素晴らしく、ナルサスさまの創作意欲をいたく刺激してしまうのです」
──どういうことか、おわかりですね。
それだけ言うと、エラムはさっと板を脇に抱え、そそくさと立ち去ってしまった。慌ててイスファーンがその背中に向かって叫ぶ。
「後片付けをお忘れなきよう! そう伝えておいてくれ!」

「……つまり、なんだ。あの『何か』はナルサス卿の作品で……」
「夜、それと気づかず、通りすがりに見てしまった者が体調不良になっていた、と……?」
ジャスワントの言葉を引き継いだギーヴが、掴まれた腕を振り解く。ジャスワントも背中から手が外れたのを確認し振り返った。
「何か言いかけていたな。匂い、だったか?」
「あ、あぁ、たまに軍師どのからする匂いと同じ匂いがしたから、伝えようとしたのだが……気づくのが遅かったようだ。あれは絵具の匂いなのだな」
そういえば、と今度はイスファーンが振り返った。
「海賊を拷問にかけるのに、あの、絵……?を使ったというのは、まことなのか?」
二人はさっと目を逸らした。

 

「二つ目も解決、っと……」
「残るはひとつか。なんだったか」
「『地面に光る目』だ。場所は練兵場隣の空き地」
羊皮紙に目を落としながらイスファーンが答える。
「魔道士疑惑のやつか」
「もし本当にガーダックによるものだとしたら、かなり面倒ではないか?」
「魔道士本人の武力は大したものではないから、どうにかなると思いたいが」
「そのあたりは実際出くわしてから考えるしかないだろうよ」
階段を降りる三人の足音が、石壁に当たって大きく反響する。壁の窪みには一定の間隔で蝋燭に火が灯されているが、その小さな灯火は明かりと呼ぶには不十分だった。ひたすら続く螺旋の階段と、等間隔の灯火。制限された情報しか入り込まない閉塞的な環境は、次第に脳に靄をかけていく。どれほど降りたのか、わからなくなっていた。
「……地上はまだか?」
ふたりのつむじを眺めるのに飽きたギーヴが、とうとう口を開いた。
「おれにもわからん」
「今二百二十九段降りたところだから、あと少しだ」
「は?」
「あーっと、もしかして、ジャスワントは、階段の段数を覚えている、のか?」
「この塔に限らず、な」
「今日一の寒気がした」
「そんなこと言うな。このまま永遠に降り続けるのかと不安になってたところだ」
そんなことを口々に言っている間に、外壁沿いに配置された篝火の明かりが目に入る。出口が見えてきたのだ。
足早に階段を降りきると、一気に広がる視界に目が眩む。じうじうと虫の鳴き声らしきものも耳に届く。
戻ってきた。本当に地上にたどり着いた。イスファーンとギーヴはおお、と感嘆の声を漏らし、両側からジャスワントの肩を叩く。褒めているつもりなのだろう。まるで馬にするような扱いだが、手燭を持っているジャスワントはたいした抵抗ができずに、されるがままになっている。
「書庫に行けば、段数だけでなく、幅やら高さやら、大抵の数字は見られる」
どうだ?と肩をすくませれば、二人の手は同時に離れていった。
「いや、それは」
「遠慮被るね」
ほとんど異口同音に言うものだから、思わずジャスワントは笑いを噛み殺した。
本当は仲良いんだろう。皆の手前、そう振る舞えないだけで。
そう揶揄しようとした時だった。ぴたりと虫の声が止む。一瞬の間隙のち、びょうびょうと強い風が正面から吹きつけた。
「あ……」
目を庇うように持ち上げていた手を下ろしたジャスワントはあることに気づいた。
あたりの篝火も手燭の火も消えてしまっている。
「どちらか、火種は持っていないか。俺は手ぶらだ」
ギーヴがひらひらと手を振ったらしい、空気がわずかに揺れる。それには応えず、何かに気づいたイスファーンが気配を鋭く尖らせた。ジャスワントが懐から火打石を探り当てるが、慌てたのか、暗闇の中、取り落としてしまう。
からんからん、と火打石の転がる音が妙に大きく反響した。
「……そこの者、火種を貸してくれぬか」
ギーヴが気安い調子で闇の中・・・へ声をかけた。規則的な足音が近づいてくる。急かすほどに遅くなく、さりとて早くもなくゆっくりとした印象の、不思議な足取りだ。
深い闇の向こうから姿を表したのは男だった。暗いせいで顔ははっきりとは見えない。だが闇に慣れてきた目が腰から下げた二刀の輪郭を捉え、三人に男が誰であるかを知らしめていた。
「キシュワード卿でございましたか。ご無礼仕りました」
イスファーンが瞬時に空気を和らげて体から力を抜く。
「気にするな。こちらこそ怖がらせてしまったようだ」
あぁ、火が入り用と云ったな。やんわりと手を振った男は朗らかに言って、足元から何かを拾い上げた。
「部屋の周りを歩くだけだから不要と思い……持っていないんだ。すまない」
男に一番近かったギーヴの手に乗せられたのは、先ほどジャスワントが取り落とした火打石だった。
「あまり遅くならないようにな」
たぶん、すこし笑ったのだろう。ゆるりと空気が動いた。それから男は踵を返し、元来た道をなぞるように闇に溶け込んでいった。
「──ジャスワント、ここか?」
「っ、ああ」
急に近くでギーヴの声がしたと思ったら肩に手がかかり、肩が跳ねる。そのまま滑り降りた手は、肘を通って手の甲にたどり着く。ひっくり返された掌の上に、硬く冷たいものが乗った。親指の腹でなぞって、ようやくそれが火打石だとわかる。
硬質な音が二度響いて、にわかに四辺が明るくなった。
誰かがほぅ、と息をついた。真っ暗闇のなかで完全に弛緩できるほど平穏な世界でも、人生でもない。無意識に体が強張っていたらしい。
「助かった。この月明かりではさすがに満足に見えん」
「明日……今日? 会ったら改めて礼を言っておこう」
各々呟きつつ、ぞろぞろとジャスワントのもとに集まってくる。
「にしても、ずいぶんと夜目の利くことだ」
「もともとあかりを持っていなかったし、目が慣れてたんだろう」
「ふぅん」
ジャスワントの推測に、興味なさげな相槌を打ってギーヴは歩き出す。
「さっさと行くぞ。おれは男どもと夜を明かしたくなんぞないのでね」

 

「ここへ来てはずれか?」
「何もないな。目玉も魔道士も、影も形もない」
空き地はそれなりに広さがある。視界を遮るような草木は生えておらず、地面を舐め上げるように吹く温い風が、時折顔を掠めていく。
手持ち無沙汰なのか、擦り付けるようにじゃりじゃりと音を立てて軍靴で地面を削った。そんなギーヴを尻目に、イスファーンがぱたぱたとあちこち覗き回っている。木箱の下、四阿の柱の陰、資材の隙間。呆れたようにギーヴが声をかける。
「おい! そんなところにいるわけないだろう」
「じゃあどこにいると言うんだ。ここまで来て収穫なしは嫌だぞ。もう眠い。今日で終わらせたい」
それには同意する、とジャスワントが目頭を揉みほぐすようにつまんだ。
「そもそも毎日出るとも限らないし、ここまでサクサク進んだ方が異常だったのかもしれない」
「呼んでみたらどうだ? 誰か〜、誰かいませんか〜?」
ふざけたギーヴが大声を出すが、帰ってくるのは虫の声ばかり。
「今日はいないらしい」
肩をすくめたギーヴが振り返ろうとした、その時。
「うるさい。人の睡眠を邪魔するやつはマンガタイに喰われるぞ!」
「「「っぎゃぁああああ!!!」」」
「うるさい!!!」
「えっ?」
素直な罵倒に、三人ははたと口を閉じた。
言葉が通じる、すなわち人間。であれば恐れることなど何もない。
改めて声の主を見ると、やや小柄な男である。肩につく長さの黒髪が、夜風に靡いていた。浮いた前髪の下で吊りがちな目をさらに三角にしてこちらを睨め上げている。暗くてわかりにくいが──
「ジムサ将軍、か?」
「そうとも。わかったらさっさと行ってくれ」
「いやいやいや、まだ始まったばかりなんだな、これが」
「異変を調査していてな。ここで『地面に光る目』を見た者があるらしい。なにか知らないか?」
三人で取り囲むようにすると、毛を逆立てた猫のようだったジムサが大人しくなる。とはいえ依然として目は険しく眇められたままだ。
「さぁ、最近夜はここにいるが、そんなものは見ていない」
「……なぜに?」
かれの返答にひっかかりを覚えたジャスワントが質すが、ジムサはいまいち要点を得なかったらしい。不機嫌そうに腕を組み直した。
「とは?」
「ここに用事でもあるのか?」
なにか動物を世話しているとか。そう尋ねたジャスワントを、ジムサは変なものを見るような目で見上げた。
「夜やることといえば概ねひとつだろう。寝に来ているんだ」
「そうとも限らない」
夜の過ごし方に一家言ありそうなギーヴだったが、特にだれも取り沙汰しないのでかれは口を閉じた。寝台を探してイスファーンはあたりを見回している。寝具の類はまったく見当たらない。
「ということは、あの四阿か?」
「そこにいることもある。地面の上のこともある。日によって違う」
「……なぜ、」
ジャスワントと同じ疑問の言葉をイスファーンが口にした瞬間、ジムサが沸騰した。
「このクソ暑い中、風のない室内になぞいられるか! 死ぬ。蒸し死する。そんな阿呆な死に方は嫌だ!」
「うわっ!」
イスファーンはのけぞった。
たしかに、ジムサは草原の生まれだ。石壁に囲まれた家での定住はトゥラーンの生活様式と全く異なる。青草の上を吹き渡る風との生活に比べれば、パルスの、それも人口の密集したエクバターナでの夏は耐え切れなくとも仕方ない。そう理解はできるが、だからといって外で寝なくても。
「なあ、もしかして」
「ああ」
ジムサの剣幕に驚いているのはイスファーンだけで、残る二人は顔を見合わせている。
「なに二人だけでわかったような空気を出してるんだ。教えろ」
「早く寝たい」
「素直なやつらだな」
「簡単な話だ」
妙な方向に感心しているギーヴには説明する気が無いとみたジャスワントが口を開く。
「ここにいるのに見ていないと言うジムサ卿。しかしここで見たと言う者がある。つまりその発見者が見たのは、ジムサ卿だ」
「……うん? ジムサには手も足もあるが」
「それは明かりのあるところで見ているからだ。まさか人がいるとは思いもしない場所で、さらに夜、動いてもいない人に気づけると思うか?」
「現におれたちは声をかけられるまで、ジムサに気がつかなかったろう」
言われてイスファーンは改めてジムサの格好を眺め回した。黒髪、日に焼けて浅黒くなった肌膚、決して明るくはない服の色。たしかにじっとしていれば闇に紛れて見失ってしまう気がした。月の光か、もしくは遠くの発見者が持つ明かりを青く濡れ光る白目が弾くことによって「目だけが見える」ように見えたのだろう。
「おれも、暗がりにいると目と歯しか見えないと言われたことがあるからな」
同じく浅黒い肌膚を持つジャスワントがそう締めた。
「へえ……」
「そういうわけだ。まだここをねぐらにする気なら、天幕を持ち込むか何かしてくれ」
ギーヴの言葉に、不承不承といった表情でジムサは頷いた。与えられた部屋に戻るつもりもないが、さりとて騒がれるのも嫌だ。その妥協点としては妥当なところだろう。
これで一件落着。邪魔をして悪かったな、そう言って立ち去ろうとしたが、一人、ジムサの前を動こうとしない者があった。
「ところで、マンガタイってなんだ?」
そう尋ねるイスファーンの目は興味で爛々と輝いていた。

 

「そろそろ皆も解散した頃かな」
ギーヴがのんびりと欠伸をした。
つられて二人も大口を開けそうになり、慌てて欠伸を噛み殺す。すべての異変の原因を究明し、ともすれば緩いと言えそうな、のんびりとした空気が漂っていた。
「そういえば、おれもペシャワールでザラーヴァント卿に踏まれかけたことがあったな」
「──あったな、そんなこと」
イスファーンが苦々しげに呟いた。いささか居心地が悪そうなのは、その時期に起こした決闘沙汰まで思い出したからだろうか。かくいうジャスワントも、ザラーヴァントとの諍いを双刀将軍に仲裁されているのだが。
そんな彼らの傍らで他人事の顔をしていたギーヴが、肺の空気をすべて吐き出すような、盛大なため息を吐いた。
「どれもこれも、幽霊とは名ばかりの、各人の自由すぎる振る舞いのせいではないか」
「一番自由にしているおぬしにだけは言われたくないな」
「まあ、良かったじゃないか、侵入者だの魔道士だのでなくて」
そう言いつつ、おそらく三人とも、事態の真相には気がついていた。
本当に侵入者の疑いがあるなら、怪異調査隊など結成している暇はない。宮廷画家が口を挟まなかった時点で、国王の息抜きのお遊びだと気づくべきであった。この程度の異変、ナルサスは先じて原因に気がついていたはずである。
ついでに、王宮でどのように過ごしているか把握しているぞ、という諸将に向けての牽制もあるのだろう。釘をさす側のナルサスまで異変に数えられているのは妙なことだが、自分を棚上げしないところは好感が持てないこともない。
とはいえ、この三人の睡眠時間を削ってまでやることかと言われれば首を傾げるような内容なのだが。

王宮の入り口に戻ってきた三人は、今後の動きを確認した。
「では、ひとまず解散ということで。報告書は明日以降でよかろう」
「承知した」
まだ太陽は没したまま、依然として空は暗い。
生真面目に返事をしたジャスワントの背を見送り、自身も踵を返そうとしたイスファーンの背中に何かが当たる。
背後から肩を抱くように、ギーヴの腕が回り込んでくる。軽く体重をかけられ、何事かと振り向こうとすればそれを阻まれる。そのまま左の耳に、触れるほどの近さで囁き声が吹き込まれた。
「いやなに、火に照らされたおぬしを見て、な」
「?」
抱きつくというより、羽交い締めに近い体勢でずるずると連れられた先には、見覚えのある扉が待ち受けていた。埃っぽい、使われなくなった部屋。妙に清潔に保たれた寝台がその部屋にあることを、イスファーンは知っている。

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