星の砂

 

夢を見た。
それは幼い時分に、本当にあったかもしれない記憶だ。

 

いつも見上げていた。本当に、何をするにも。
兄が家にいる間は、朝から晩まで時間の許す限りついて回ったし、私室にも押しかけた。鍛錬をせがみ、兄の寝かしつけでなければ眠らないと――思えばなんと迷惑なことをしでかしたのであろうか!――宣言したこともある。
だが、兄はその後王都で武勲を挙げ、王から名誉ある万騎長の地位を賜った。その年から、彼が家に顔を出すことはほとんどなくなった。とはいえ、実のところ故郷の家に帰ってくることはもともと少なかった。むしろ、月に何度も帰ってきていた時の方が珍しかったのだ。
今思えば、兄の名代として家を守るイスファーンを信頼してくれていたのだろう。だから、イスファーンが知っている兄の顔はといえば、見上げた先にあるものなのだ。

謹厳実直で、自分にも他人にも厳しいので、少しの恐れと共に多大なる人望を勝ち得ていたと聞いている。部下たちによく慕われていただろうことは想像に難くない。こんなことを面前で言えばおこがましいと叱られるかもしれないが、弟ながらによい男だったと思っている。
自身も兄の隊列に加わって駆けたかったし、できることなら手柄を褒めてもらいたかったと、今でも思う。きっとあの男なら血を分けた者だからといって贔屓などしてくれぬだろうし、そんな兄だからイスファーンは畏敬にも似た思いを抱いているのだ。そんな男に称えられたなら、男としてこれほど嬉しいことはなかっただろう。
だがそんな男にも、慣れぬ作業にあたふたしたり、予定通りに進まない一日を苛立ちのうちに過ごしたりしたことがある。まあ、おれこそがその原因なのだが。
つまり、幼子の機嫌に一喜一憂し、夜泣きに眠れぬ夜を過ごし、羊皮紙に向かいながらうつらうつらしていた時期が、想像はできないかもしれないが、確かにあったのだ。

語ってくれたことがあった。
『おれが何か言うと、いや言わなくともなぜだ、どうしてだ、ととことんまで追求してきて、正直辟易していた時期がある』と。ほんの少し、視線を左に投げ苦笑いしながら教えてくださった。イスファーン自身にも思い当たる節があったので、火照った顔を冷まそうと苦労しながらその節は……、とかなんとか、口の中でもごもごと応えたのだ。

曙光が霧がかった大気を切り裂く頃。
庭からは鋼が連続してぶつかる音、ひとりぶんの荒い息遣い、地に何かが投げ出される音に続いて「次! 構えろ!」という声が聞こえる。
草花の芽吹く季節になったとはいえ、陽の昇りきらぬうちはまだ薄暗く肌寒い。人間が活動するにはいささか早いのではないか、と怠惰な人物であれば二度寝を決め込むだろう時間帯だ。
尻もちをつき、至る所に泥をつけた少年、イスファーンは刃の潰された腕の長さほどの剣を握りしめ、琥珀に水を湛えながら目の前に立つ青年を見上げている。
「どうした、早く構えなさい」
そう声をかけたのは少年の異母兄であり、近頃は王都での評判も良く、騎士として名の知られつつあるシャプールだ。
「どこか怪我でもしたのか、それなら手当をしなければ」「どうして私は、兄上に勝てないのですか?」
剣を支えにして立ち上がったイスファーンが兄の言葉を遮って尋ねた。
「おれの方が強いからだ」
いつもは行儀のよいイスファーンの礼を失した挙動に戸惑いながらも答えると、それを待っていたかのように、怒涛の勢いで質問が放たれた。
「なんで? なんで兄上は強いの?」「たくさん鍛錬したからだ」「たんれんするとなんで強くなるの?」「うむ……それは、」「たんれんってなに?」「今やっているこの稽古や、そのほか自分を鍛えることだ。おれも昔からやっているし今もしている」「兄上ってなに?? おれってなに???」
ひとつ答えるごとにみっつは質問が生まれるような塩梅だった。
「…………剣の稽古よりも問答がしたいのか、イスファーン。人に問う前にまずは自ら考えよ。考えなしに問いかけるのは馬鹿だと喧伝して回るようなものよ」

「もんどう、ってなに?」
騎士は溜息をついた。

それからと言うもの、イスファーンは事あるごとに何故かと問うた。シャプールは根気強く答えることもあったし、少し経って質問責めに慣れると「それは調べないとわからない。調べて答えが出るまで時間がかかるゆえそれまで自分で考えてみろ」と時間稼ぎすることも覚えた。幼子の興味など猫の目のように変わりやすいので、次に顔を合わせた時にはまた別の質問を携えているのだった。

ある時、イスファーンはいつものように信頼する兄に問いかけた。
「どうしておれは、女になれぬのですか?」
シャプールの、深く刻まれた眉間の皺が解かれ、目が見開かれた。笑っては馬鹿にしていると思われると考えたのか、一度はぎゅっと堅く口を引き結んだシャプールだったが、腹の底からじわじわと湧いてくるおかしさに堪えきれず体が揺れ、ついには辺り憚ることなく声を出して笑った。
それから言うには、
「おぬしはよくまあ色々と考えるものだ! おれがそれくらいの歳の頃にはそんなことは一度たりとて考えたこともなかった! もしかしたら騎士よりも学者の方が向いているのかもしれんな」
そうして笑いすぎて滲んだ涙を拭うと、弟のまだ植物の茎のようにほっそりとした、しかししなやかな筋肉を感じさせる体を抱きしめて呟いた。

「イスファーン、おれはおぬしが女であればと考えたことは一度もない。なにより大切なおれの弟だ。おれの弟として生まれてきてくれて、本当にありがとう」

そう、そう……、ゆめをみたのだった。
それが胸が痛むほど懐かしく暖かい思い出であると同時に、その時々の兄の顔が、はっきりと思い出せないから、イスファーンの顔をぬるい滴が伝っているのだった。
確かにあの時、兄は笑っていたはずだ。けれどもよくよく目を凝らそうとすると離散してしまう。
顔は、顔は覚えている。
眼光の鋭い人だった、髪は黒く、邪魔にならぬようにと前髪は短く切られ、後ろ髪は編んであった、真面目で本心を隠さない人だったから、それが表情にも素直に現れていた、だから眉間に皺を寄せるのが癖になってしまっていて、でもおれといるときはそれが緩むのが嬉しくて、…………ほんとうに?
本当に、笑っていたのだろうか。
己の補正が知らず知らずのうちに記憶を捻じ曲げてはいないだろうか。絶対に無いと言い切れないから今も塩辛い顔が乾かないままなのだ。
恩知らずにもほどがある。いのちの恩人であり、師父でもあり、憧れたひと。星を見るように見上げていた。
そして、おれの、あにうえ。
たった一欠片でさえとりこぼしたくなんてなかったのに。掻き集めても掻き集めても掌から零れ落ちる砂があると気付いてしまった。
イスファーンは壁に頭を打ちつけた。

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