言わぬことは聞こえぬ

 突き詰めれば。王から隊を預かる将軍の役割というのは、なるべく多く敵を殺し、なるべく多く味方を生かすことにある。クバードはそう思っている。
もちろん建前上王家を守り国を守るためと口にはするが、やっていることはそういうことだ。
それゆえに、選ばなければならない。多く生き残る方を。切り捨てるべきものを。

 

眼前に広がる光景は端的に言って地獄だ。
霧の向こうに大口を開けて待ち構えていた奈落の底で、今もパルス兵は生きながら焼かれている。まったく心構えなくそこへ飛び込んでいった自軍の兵士たちは、開戦前よりもその数を大きく減らしてしまった。運良く断崖と火の海から逃れても、一人に対してルシタニア兵五人が群がるような有様だ。いかな精強と呼ばれしパルス兵であっても、数の多寡には逆らえない。
肉の焼ける臭いと鉄錆びた血臭、耳を劈く悲鳴、目に染みる黒煙。これを地獄と呼ばねば何を地獄と云うべきか。生き残ろうとする本能なのか、戦場では五感がいやに過敏になる。それに助けられたことは幾度もあったが、そのせいで今も地獄を彷徨うはめになっている。
そんな耳が何事か、知らぬ響きの叫びをとらえた。どうせ討ち取れとかそのあたりだろう。
「ふっ」
名のある武将と見て果敢にも向かってきた敵兵を、クバードは馬上から一閃のうちに絶命させた。

隻眼を細めて見やる先に、馬上で槍を振るう姿がある。矛先から血を撒き散らして一瞬ごとに肉塊を量産している。暗色の外套は返り血でさらに暗く染まっていて、いかにも重そうだ。同じことを思ったのか、首元の紐を左手でむしりとるように解いてそのまま敵の頭めがけて投げつけた。視界が奪われた瞬間を逃さずに正面の首を刎ね、隣の兵士の装甲の薄い腋に石突を突き込み、馬に近寄った歩兵の武器をもつ利き手をとばす。これらを一呼吸のうちに行なってみせたシャプールは、敵が事切れるのを見届けずに次の相手に向かっている。
ここだけ見れば善戦していると思われるかもしれない。シャプール隊は平たい面の形の方陣をとってよくルシタニア兵を押し留めている。いっときは前線を押し上げさえした。だが騎馬の利である機動力は敵の戦団にとらえられた時点で失っている。
苦々しい思いで先程から揺れる軍旗を見つめている。数は減り、そして先には進めない、パルスの軍旗。
忙しなく大剣を右に左に振りおろす。クバードにもさほどの余裕はない。耳障りな剣戟と血風が一瞬ごとに濃度を増していく。
どっと眼に見えない衝撃があった。新たなルシタニア兵の一団がやってきて、方陣の端を食い破ったのだ。轟く馬蹄の響きが近づいてくる。
「ちっ、新手か。次から次へとよくもまあ」
敵兵の群れに踊りこんで波をかき分けるように進むシャプールの姿を横目に、クバードは配下に指示を出す。撤退の指示だ。おそらくこのいくさは負けるだろう。命あるだけ僥倖と言わざるを得ないほどの負け戦だ。
既にどれだけ斬ったかわからぬ。それでも、巻き返せるなどとは到底思えなかった。戦略における敗北は個人の武勇でどうにかなるものではなく、圧倒的な武力で大陸に名を馳せたパルス軍は、高い授業料でもってそれを学ばされた。
混戦のさなか、たったいちど、目を合わせた。それだけで、相手が何を考えているか理解してしまった。これだから過敏な神経ってやつは。そう思ったが、それは間違いかもしれない。だって何も聞いてはいない。十分の一秒にも満たない時間、目が合っただけだ。それでもわかってしまったのは、普段からあまりにも相手を知っていたからだろうか。

兵士は上官に似る。それゆえ、生き延びる兵士が多いのはクバードの隊だ。クバード自身も、そしてシャプールも、それをわかっている。わかりきっている。彼が何を選びとり、何を切り捨てたのか。
殿軍をつとめれば生きて還る希望など持てはしない。その上で殉じる覚悟があり、怖気づいたりなどしないのがシャプールの育てた兵士たちであり、彼の率いる誇らしくもかなしい隊なのだ。
胸郭の内側で心臓がどんなに暴れ叫んでも、シャプールただ一人を救うためだけに兵士を散らせるわけにはいかない。それが将の役割で、割り切りはクバードの得意とするところであるはずだ。彼の生存は、彼自身の技倆と生への執着に賭けるしかなかった。
いまいちどシャプールを振り仰ぐ。
伏せた頭に剣が当たって兜が跳ね飛んだのが見えた。強かに打ったらしく頭を振っている。地に落ちたそれを拾う余裕はもはや無い。彼の特徴とも言える二本の編み髪が振り乱れる。
ルシタニア兵のいくたりかを蹄にかけて、進むべき方へ・・・・・・進むと血臭が一段と濃くなる。
「シャプール!」
声をかけると男は振り向かず叫んだ。
「血路を開いてやる! 精々生き延びて」
不自然に途切れた声。横から首を狙って突き出された剣先を打ち払い応戦するシャプールは、二合と打ち合わずに馬上から相手を叩き落とした。
わざわざ声に出すのは周りの兵士に聞かせるためでもある。
「早く! さっさと行けッ!」
「言われずとも!」
クバードは馬腹をきつく蹴って駆け出した。

目の前のルシタニア兵が最期の力を振り絞り、突き刺さったシャプールの槍を腹に抱えながら渾身の力で、血と汗にまみれた手で、抜くのではなく、むしろ自らぐっと押しこんで鞍から落ちていった。
空手になった武将に好機とばかりに殺到する白刃。ひとりの歩兵がその身をもって刃を受け止めた。シャプールはすぐ近くにいた旗兵の手から軍旗をもぎ取って大きく薙いだ。
深紅の旗が戦場にたなびく。

「ここは、万騎長シャプールの名に賭けて、誰一人生きて通さぬ! 死にたくなくばパルス騎兵の前に立つな!」

彼が吼えるのを背後に聞いた。シャプール麾下の兵のあげる鯨波が、痛いほどの推進力となってクバードの背中を強く押す。
なにか、言語にならない咆哮をあげかけ、無理矢理咽喉を締める。ぐぅ、と鳴ったが喧騒に掻き消されたことだろう。
既に選んだ。置いてきた。その決断を、誰が覆せよう。この身を翻すことこそ彼らの覚悟を侮辱することに他ならない。
振り向かないのはだから信頼だ。当然、討ちもらしなどしないだろう、という。けれどもそれ以上に、振り向いた時にその姿が見えないのが怖かった。まだあの旗は立っているだろうか。

あの時「生き延びて」の後にはなんと続けるつもりだったのだろうか。
死人に口なし。
いくら鋭敏になった耳をもってしても、こればかりは。

 

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