ダンス・マカブル - 1/2

しばらく前から、この拠点では獣を飼っている。否、獣だったもの、かもしれない。

若い兵卒はその生真面目さが祟ったのか、上官から地下牢の番を任されていた。陽の差さないここはいつでも薄寒くじっとりと湿っていて、松明の灯りは隅まで届かない。おまけに煤も出る。誰だって長居したくないと思うだろう。
顔を上げた彼は、交代はまだかと壁を透かし見るように眺めた。日に焼けた頬はまだわずかに丸みと柔らかさを残しており、少年期を脱したばかりの青年に見える。
向かいの突き当たりを曲がると地上へ上がる階段があるが、まだ人の来る様子は無い。陽も差さず、水時計もないここでは、時間の経過を知るすべに乏しい。
彼は嘆息し、手元に視線を落とした。最初のうちは暇つぶしに経典を読んでいたが、最近は近隣の家屋から頂戴した図鑑らしきものを見ている。植物に関するものらしく、ルシタニアでは見られない植物が目に楽しいうえ、パルス文字がわからなくても楽しめるので重宝している。

しばらくそうしていると、耳が複数の足音を捉えた。驚きに胸郭の内側で心臓が跳ね回る。慌てて図鑑を懐にしまい、立ち上がって軍礼した。そろそろ付け焼き刃とは言えない程度には軍での作法が身に付いていることに、なんとも言えない心地がする。彼は幸か不幸か、戦場に立ったことはなく、その生真面目さと聡明さを買われてこの場にいた。一方上官は既にいくつかの戦地を経験しており、その武勇伝は繰り返し聞いている。「命を奪う」という選択肢を持った人間と相対することは、彼にとって一種の緊張感を覚えずにはいられないのだった。
「見張りご苦労」
あらわれた二人組の片方は彼の直属の上官で、もう一人は上官の友人だった。よく夜に呑んでいるのを見かける。
「は、ありがとうございます」
じゃり、と鎖の鳴る音がした。それを聞いた友人の方がにやりとして牢に近寄った。上官に、鍵を開けるよう目線で促される。一瞬の逡巡ののち、震える手を押し隠して牢を開くと二人がするりと中に入り込む。
「あれ〜まだ生きてるんだ」
それはあからさまな嘲謔だった。
牢に入っているのは一人のパルス人だ。服というよりかは布と言った方が正確な襤褸を着せられ、左足首には枷を嵌めている。冷たい床石を意に介さず、四肢を投げ出して座り、ただ仰いて中空をぼんやりと見ていた。
見張りもなにも、このパルス人は今やほとんど動くことがない。
友人の方が上から覗き込むように腰を折る。
「俺だったらこんなことになったら舌噛み切って死ぬのに」
「それくらいにしといてやんなよ」
嘲笑が反響する。
「いいだろ、どうせなにもわかっちゃいないんだ」
なぁおまぬけさん。同意を求める調子で呼びかけ、パルス人のあごを掴む。
「ひとりでのうのうと生き延びて、お偉がたにケツ振って生かしてもらってるなんて、これが音に聞こえた大陸公路の守護者かよ」
そう言って掴んでいた顔を乱暴に突き放した。二人はパルス人の口の端から涎が垂れるのを不愉快そうに見やり、そしてまた笑う。
「我らが隊長がお呼びだ。良かったな。また一日生き延びられるぞ」
彼が足音に緊張するもう一つの理由だった。
これが、負けるということなのだ、と。
目を背けた先で、羽虫が松明にその身を焼かれていた。

枷を外したパルス人を車椅子に載せ、兵卒は砦の中庭に出た。先程の上官二人は調練があるからとどこかへ行った。
長閑な陽光がかれらを照らす。やわらかな風が草上を這い、パルス人の亜麻色の髪を揺らして通り抜けていった。人目のない事を確認した兵卒は、伸びをして数刻ぶりの新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込み、吐き出す。薄暗い世界から出ると、晩春の色彩の鮮やかさをより一層堪能できる。
中庭には小さいながらも花壇があり、種々の花が咲き誇っている。常緑の高木もいくつか植えられている。
そのうちの一本、もっとも華やかな木がある。蔓状の植物が幹を飾るように這いあがり、頭上まで伸びたそれは枝から地面に向けて幾条も垂れ下がる。蔓はあちこちで檸檬色の花をつけており、なんとも幻想的な雰囲気であった。花が茉莉花のような芳香を振りまいているせいもあるかもしれない。
動く影があった。木の下に、隊長が待っていた。美しい光景とパルス人のこれからを思うとその不釣り合いさに怖気がする。
たまには外に出してやらないと、と優しげな言葉を吐く彼が、気まぐれにこのパルス人を組み敷いては征服感に浸り、いいように扱っていることは公然の秘密であり、妻子のあることや経典で禁じられた鶏姦であることは黙殺されていた。
隊長の行う、躾と称した激しい懲罰や動物にするような扱いは、次第にパルス人の神経を蝕んだようである。当初は抵抗を見せていた彼がおとなしくなり、やがて刃のようだった気迫は鈍磨し、今では白痴じみた様相を呈している。
今更、惨いなどとは言えなかった。男は負けたのだ。勝たねば何もかも奪われる戦争という場で。闘争本能に突き動かされた男たちに人道的配慮などあろうはずもなかったし、ましてや相手はパルスの異教徒で、完全なる敵だった。
初めは屈服させることを目的に、男が自失してのちは軍をより良く機能させるための装置として、このパルス人に陵辱を強いた。討ち滅ぼすべき害悪なのだ、だから人として扱わなくてよい、というのが隊長の言い分だった。
そうして負けた男は失った。かつて憧憬を集めたであろう見事な肢体を、男としての尊厳を、生殺与奪の権を、自我を。敗北者は蹂躙されるという戦場の掟通りに。
吐き気を堪えながら、彼は車椅子を木の下まで押す。いきなり連れてこられた外に不思議そうにしている男が痛ましくも腹立たしかった。上官の友人が言うように、抗いの果てに自害してくれればよかった。そうすればおのれは人の狂気に触れずにすんだかもしれない。男をこれから犯す相手のもとへ、連れてゆかずにすんだかもしれない。
花の香りを嗅いだのか、パルス人が花に誘われたように腕を持ち上げた。座っているせいで幾分か低い位置から、檸檬色に包まれた蔓にむけて熱心に手を伸ばしている。相好を崩した隊長が、ひじから指先までの長さほどをちぎりとってパルス人に与えた。嬉しそうに受け取った男は花を毟りはじめる。
「なんとも能天気なものだ」
愚かさを愛するような悪趣味さを滲ませ、男が花を毟り終えたのを見て、また一本、垂れ下がった蔓をちぎった。
そうして、パルス人の膝の上には檸檬色の小さな山ができあがった。辺りに漂う芳香は一層強くなり、視界が霞んで見える気さえする。
「さて、気はすんだかね」
その声に反応したのかどうか。突然パルス人が山に手をさしこみ、機敏な動作で花を口へ運んだ。
「これこれ、食うものではないよ」
そう言いながらも男はパルス人を止めることはしない。
「どうやら、人ということさえ忘れてしまったようだな」
地下牢で聞いたのと似た響きだった。つまりは嘲弄。けれども、確かに口辺を花で彩るその姿は、どこか人外じみてもいるのだった。熱を孕んだ黄金の瞳、陽に輝く亜麻色の髪、そして檸檬色の花。一式揃いで誂えたようにぴたりとはまっている。
「まるで悪魔だ」
兵卒はこの仕事を任された時から、余計な手出しはするなと厳命されている。言いつけられたことだけをすべし、と。その聞き分けの良さを上官は聡明だと言う。
彼が口を挟むか迷っている間に、パルス人はまたしても腕を差し上げていた。今度は、隊長に向けて。
するりと、大事なものを抱えるように柔らかく、隊長の首に腕を回して、そうしてなぜか隊長と唇を合わせた。
「なっ、」
驚きに硬直する彼の前で、もっと、というように体を押しつけるパルス人。
「うん? ここでしたいのか?」
隊長はパルス人の耳後ろを愛撫するようにさすり、お前も混ざるか、と目線で問うた。首を振って拒んだ兵卒に下卑た笑みを見せた男はパルス人の腰に腕を回す。花弁がひとひら零れ落ちた。
彼は軽蔑を覚えた。とうとう人であることを辞めたらしいパルス人に対して心を痛めてやったことが腹立たしい。自我を失い色欲に溺れて永らえる生命にいかほどの価値があろうか。そんなものを相手にしている隊長に対しても怒りが湧く。人でなしと交わるあなたは一体なんだというのだ。
にちゅ、くちゃ、と執拗に舌を絡め、唾液を啜る音がここまで響く。先ほどまで聞こえていたはずの調練の声はいつの間にか聞こえず、わずかな水音が鼓膜を揺さぶる。
立ち去ることもできずに立ち尽くしていると、不意に覆い被さる男の体がびくりと跳ねた。離れようとした男の体を、どこにそんな力がという強さで抑えつけるパルス人。もがく隊長が必死の形相を浮かべていることに気づいた彼が慌てて引き離そうとしたところで、隊長の体が蹴り飛ばされる。同時に男は隊長の腰間の柄を掴んで抜き放つ。幹にしたたか背中を打ちつけた隊長はうっ、と一声あげて倒れている。
剣を抜き、隊長を庇うように立ってちらりと背後を窺う。肉付きのいい顔がすっかり青褪め、ほとんど白目をむいてかひゅ、と異常な呼吸をしている。明らかに状態がおかしい。喉を掻きむしっては胃をひっくり返したように吐いている。
……貴様、なにをした」
正気を取り戻したのか、それとも元から正気だったのか。
口内に残った花弁を唾棄とともに吐き捨てた男は、ふらふらと彷徨わせていた視線をかちりと兵卒に合わせる。炯炯と光る視線に射抜かれ身動きが取れない。いくさの経験がなくともわかる。おのれは今、獣を相手にしている。
もはや最前までの幻想的な風景などどこにもなかった。吐瀉物の饐えた臭いと、硬質で鋭利な殺気。一瞬にして辺りは戦場へと様変わりした。
森然な雰囲気に気圧されたように、半歩、踵を下げた。刹那、視界の端で閃光が煌めく。首に灼熱を感じたような気がする。

彼にそれを思い出させたのは走馬燈だったかもしれない。薄暗い牢の前、手もとの図鑑。見覚えのある花が描かれている。
そこには、確かに髑髏の記号が附されていた。
ああ、彼は人の矜持を失ってはいなかったのだ。
兵卒の意識はそこで途絶える。

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