春待月の若駒たち

久しぶりに遠駆けでもするか。
そう思い立ったのは夜明けも間近のことだった。
用事それ自体が「年末」というものを知っているかのように、狙ったように舞い込む季節である。暇な人間など皆無で、あのクバードでさえ副官にせっつかれていやいや書類を片付けているという。例に漏れずイスファーンも多忙を極めており、今日はついに宵を徹してしまった。日付変わって本日は大晦日。明日は新年を祝う宴があるため、できれば早く仕事を終わらせて仮眠がしたい。
気分転換も兼ねて、しらじらと明け始めた空の下を歩いている。つんと冷たい乾いた空気を鼻から肺に入れると睡気が少しばかり退散した。
足は厩舎に向かっている。
機嫌、悪いだろうなぁ。深く嘆息し、そのまま襟巻きに顔を埋める。
長らく机仕事にかかりきりであった。こっちも好きで放置しているわけではないのだ、仕事が異常に押し寄せてくるのがいけない。おれが悪いのではなく、仕事が悪いのだ。
長く家を開けていた男が女に言い訳するような気持ちだ、と嫌な想像をしてしまい、慌てて頭を振って想像を追いやった。

生き物がいる空間は否応なく温む。厩舎に入ったイスファーンは無意識にほっと息をついた。強張っていた肩も降りる。藁が発酵するのか、外よりは空気がすこし湿っており、案外冬場は快適な場所のひとつだ。
そんな厩舎に先客がいた。ジムサ卿である。
トゥラーンから降ってきたかれはパルスとは違う独特の考えを持つこともあり、ときおり近づき難い空気を醸し出している。だが頑なというわけではない。芯がそのようにある、というだけの話で、パルスではこうであると説明すれば一応納得はしてくれるのであった。
かれらは帰ってきた直後なのか、傍らの栗毛の馬からは微かに湯気がのぼっている。
手には硬い毛の刷毛ブラシが握られ、一撫でするごとに鬣の絡まりがほどけ艶やかに首筋を流れる。気持ち良さげに目を閉じ、首を伸ばしている馬と、それを見て嬉しそうに目を細めるジムサの姿はなぜかひどくうつくしいもののように見えた。

ジムサと挨拶を交わしつつ、馬を房から引き出す。
やはり最近駆けていなかったのが不満なのか、少し怒ったように耳を伏せている。悪い、今から出るから、とあやす様に首筋に顔を寄せた。人よりも高い体温に心が安らぐ。少し冬毛が伸びていた。首を抱くようにして腕を回して撫でると、早く出せというように尻尾を振る。出会った時は鹿毛だったのが、すっかり芦毛になった。長い付き合いだな、とふと実感する。パルス人にとっても馬は良き友人である。軍馬である以上いつ命を落としてもおかしくないが、できれば長く、そして最後まで付き合いたいものだと思う。
うとうとしかけたところで、本来の目的を思い出し慌てて顔をあげた。

馬に鞍を乗せ終えたころ、いまひとりの将軍はまだ熱心に刷毛をかけ続けていた。
「ジムサ卿、もう仕事は片付いたのか」
しごと、と聞くなり思いきり口もとを歪めるジムサ。
「自然に区切りなどないのに、なぜわざわざ勝手に区切ったあげく、自分たちで忙しくせねばならんのだ」
「おれに言われてもな……」
口ぶりから察するに、まだ残っているらしい。
「気持ちよく新年を迎えるためじゃないか?」
一応答えてみたものの、ふん、と鼻だけで笑われた。納得のいかない様子である。
「せっかく文官と武官に分けてあるのだから、得意な者にやらせればよいのだ」
たしかに、と思いたくなる持論を展開したかれは、腕組みしてそれよりも、と続けた。
「早く行ってやれ、おれたちを羨ましげに見ていたぞ」

・・・

ひとしきり走らせてから戻ると、先程の主従がまだ厩舎にいた。何やら馬の尻のあたりでごそごそやっている。
「何してる?」
「新年だからな」
顔はそのまま、声だけが返る。
「だからなんだと云うんだ?」
わからんやつだな、と言いたげな顔を向けられた。
「新年を祝うんだから、装うのが当然だろう」
そういうジムサも、よく見てみればこめかみの辺りから結び目にかけて、複雑に編んである。深い碧と翠の二本の飾り紐が髪と一緒に編み込まれ、異国の風を感じないでもない。
指先は馬の尻尾を掴んでおり、三つ編みにしたそれを揃いの紐で結わえてある。丁寧に梳られた尾は乱れなく整然と流れ、明け方の青い光を弾き返している。
出来栄えを満足げに見渡したジムサはイスファーン……の引く美しい白馬に目をつけた。
「ちょうどいい、おぬしにもやってやろう」
勝手をするなと言いかけ、口籠る。自身が手をかけて育てた愛馬は贔屓目抜きに美しい。それが装うことでさらに偉容を誇るというのなら、案外悪い話ではないのかもしれない。
「おぬしは鬣をやってやれ」
ジムサの馬をみると、耳後ろから首の付け根まで、まっすぐ編んである。前言撤回。
「これは無理だ」
即答するとむっとした顔をして、
「じゃあ、いくつも房をつくればいい」
できるだろう、と断定口調。ほれ、と刷毛を渡される。
「まずは綺麗にといてからだ」
それならどうにかなるか、いや、おれがやるのか、そうか、そうだよな。胸中でぼやく間にもジムサは腰の巾着を探って紐を選び始めている。イスファーンは仕方なしに刷毛をかけはじめた。
それがおわるとジムサによる点検がされ、合格をもらって次の作業に移る。
二人は馬の首横に並んだ。
ジムサは指三本分ほどの幅の毛束をすくい取り、ひょいひょいと編み下ろしていく。ある程度まで来たところで紐で結わえる。かれの選んだ紐は、白さを際立たせる桔梗色だった。
この幅で等間隔に編んでいけ、と指示したジムサの存外器用に動き回る手指を感心しながら見ていると、それが突然こちらに向かって伸ばされた。体ごとイスファーンに向き直り、いつも一本に結ばれたそれに手を伸ばす。
驚きに反射的に反対側に傾くイスファーンの、馬でいうところの栗毛をした尻尾をとらえ、さっさと解いてしまう。何をする、と訝しげなイスファーンをよそにぐいと髪を引いて近寄せられる。曰く、「少し屈め、疲れる」。
「いてて、それじゃ疲れる、踏み台を探せばよかろう」
こっちも作業をしている、と横目で睨むと不満を伝えるようにもう一度髪が引かれる。痛みに俯きかけると動くな、やりにくいと文句を言われるので、しかたなしにすこし腰を落とした。

・・・

「それで、こんな時間になってしまったわけだが……」
思わず作業に熱中してしまい、すでに日はかなり昇っているにある。集中したあとの心地良い疲労感と満足感で一仕事終えた気分になっているが、本来の仕事はまだ残っている。
「どうにかなる。終わらなくても死なないさ」
そう言ってジムサが肩をすくめた。また徹夜だな、とイスファーンは無気力に遠くを見つめた。

明けた翌日、新年の宴が盛大に催された。
なかでもとりわけ目を引いたのは、馬と揃いの装いをして現れた二騎だった。洒落者の目に留まり、以降の新しい流行となったという。

 

送信中です

×

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!