「こ、これは……」
「一体どういうことなのでしょうか」
豪奢に飾られた箱を前にして、アルスラーンとエラムは困惑しきっていた。砂塵を纏った乾いた風が窓から吹き込み、固まる両者を掠めて奇妙な沈黙を押し流していった。
パルス暦三二四年、九月下旬。
ディジレ河を越え国境を侵したミスル国との争いに勝利した、その日の夕刻のことであった。戦捷に浮き立つペシャワール城へ、ひとつの荷が届けられた。それこそ、まさにいま眼前にある飾り立てられた箱である。贈り主はなんと親愛なるシンドゥラ国王ラジェンドラ二世。
アルスラーンが荷を受け取ったことを確認すると、使者は朗々とアルスラーンの生誕を言祝いだ。
曰く、シンドゥラ国からパルス国への祝いはエクバターナに贈ってある。曰く、親友であるおれからの祝いが無ければ寂しかろう。曰く、個人的な贈物であるから返礼など気にしてくれるな……つまりは、「友人として」「個人的な」贈物、というわけらしい。
使者を下がらせたエラムは、箱を前にしてアルスラーンと目を見合わせた。
「如何いたしますか?」
エラムの仕えるひとつ歳上の王が宙を眺めた。
「まあ、ラジェンドラどのからの祝いとなれば、開けぬわけにもいくまい。十日もすれば狩猟祭で顔を合わせるし」
「それもそうですね」
エラムは頷いた。あの御仁が一銭の得にもならないようなことをなさるとは思えない、という一抹というには些か大きな不安を抱えながら。
そうして開封したのがつい先刻のこと。エラムは既に手に持った蓋を元に戻したい気分でいっぱいだった。
中に入っていたのは、シンドゥラの特産であろう上質な糸を使いふんだんに華麗な刺繍と装飾をあしらった反物であった。——女物の。
アルスラーンは未だに石化が解けていない。
「まったく意図が掴めませんね……」
エラムは苦々しげに眉を寄せた。
中身を間違えたのなら笑い飛ばして終われる話であるのだが。間違いなく、「これ」が贈物であると云うのなら、使者がわざとらしいほど「個人的な贈物」と念を押していたのも頷ける。国際問題にはするなよ、と釘を刺した上で歳下の若き国王を揶揄っているのだろう。
「誰ぞにやってしまいましょう、陛下!」
アルスラーンは困ったように眉を下げた。
「う、うーん、それはそれでどうなのだろう。頂いたものを横流ししているような気になるが」
正直に言えば、エラムは不快であった。アルスラーンを舐めているとしか思えない所業と思えたのだ。
「しかし、陛下がその布を持っていたところで何に使えると言うのです。無用の長物を減らし、必要とする者に与えるのもまた王の仕事ではありませんか?」
捲し立てるエラムに押されたようにアルスラーンが及び腰になる。
「それもそうか…?」
今なら押し切れるとふんだエラムはそうです、と語調を強めた。
「陛下はたしかに贈物をお受け取りになりました。その後どうするかは好きにしても問題ないと考えます」
そうして国王を押し切ったエラムは今、件の織物を持って廊下を歩いている。なぜかアルスラーンも一緒だ。
日はすでに落ちており、点々と続く壁の篝火だけが光源のはずだ。しかし城内の人々の心境のせいなのか、心なしか明るい気がする。
「陛下までお越しいただくほどのことではありませんのに」
「特に急ぎの用件はないし、贈られた物がどうなるのか見届けるくらいはしないとと思ってね」
王らしからぬ小心さともとれる言葉だが、そういうきまじめな律儀さがエラムには好ましく思えた。
「しかしまぁ、はじめに出会った女性に渡してしまおうとは、兄弟子にしては少し短絡的ではないかな?」
表情を変えたアルスラーンはいたずらっぽく瞳を輝かせてエラムを見下ろした。
隣国の王から贈られた女物の布をどうしたらいいのか困っている、などと敬愛する師にどうして相談できようか。勢いで押し切った策の拙さをからかわれ、居心地の悪さにエラムはそっと目を逸らした。逸らすついでに話も逸らしてしまう。
「……なかなか女官に出会いませんねぇ」
宴に向けて準備をしている頃合いだからだろうか。きょろきょろと辺りを見回すと、突き当たりの角に、ひらめいて今にも姿を消そうとする布があった。隣のアルスラーンも同じ物を見つけたのか、忙しなくエラムの肩を叩いた。
「向こうにだれかいるぞ」
おーい、とアルスラーンは声を張り上げた。それがまるで、少年が近所の知り合いに声をかけるような気安さだったので、エラムはこめかみをおさえようとする手を留めるのに苦労しなければならなかった。奴隷制を廃止するとはいえパルスから身分差が無くなるわけではないのだ。増長されたり、軽んじられたりしたらどうするのだろう。その一端が今回の贈物であるとも言えるのに。
だが幸か不幸か、ひょいと顔をのぞかせたのは頭に水色の布を巻いたゾット族の少女だった。
「どうしたんだい、それ? かなり値打ちのする布と見たよ」
雌鹿の軽やかさで駆け寄ったアルフリードは、挨拶を終えるとすぐにエラムの腕にかかった品物に目をやった。風をはらんで揺れる布は角度によって様々な色を見せる。薄く軽いが丈夫そうで、かなりの技術をつぎこんで作られたものだということは誰の目にも明らかだ。
「そうだろうな。実はな、」
「これをお前にやろう。気にするな、日頃の礼だから」
エラムは一歩進み出て、素直に事情を話そうとする若き国王を遮る。国王の話を臣下が遮るなど不敬であるが、この程度で今更罰されはしないという信頼がある。それに、今ばかりは身分差を忘れてでも守るべきものがあった。
事情を聞いたアルフリードに、陛下なら女物も似合うよ、などと宣わせるわけにはいかなかった。アルスラーンの威厳と名誉のために。
いちおう言い添えると、アルスラーンは決して細いわけではない。ただ立ち並ぶ筋骨隆々の武将たちに混ざると少々優しげに見えてしまうだけなのだ。
礼?と胡散臭いものを見る顔つきをしたアルフリードは腕組みをして、指で肘を一つ二つ叩いた。
「只で貰えるならそれにこしたことはないけど、なんだか気持ち悪いね。交換といきましょ」
腰から提げた巾着に手を突っ込むアルフリード。慎重な手つきで取り出されたのは、手のひらに乗る大きさの鉱物だった。つまんだ細い指の間でゆらめく篝火を照り返して輝くそれは、夜空のような深い瑠璃色をしている。眺めるアルスラーンの瞳も星が散ったように煌めいている。
「陛下の目の色と同じだし、いつか拾ってとっておいたんだ。不純物もすくないから、かなり高価いと思うよ」
「綺麗な石だな」
「ではこれで交渉成立だな。持っていけ」
「ほんとになんなの? でもま、陛下のお気に召したのなら大満足よ!」
奇妙な物々交換を行ったのち、それじゃあ、と足早に去っていったアルフリードは厨房に向かう予定だったらしい。料理はできたてに限る、との意見にはエラムも賛同するところだが、妙齢の女性がつまみ食いとは。やはりナルサスさまのお相手として相応しくないのではないか。
腕を組んで見送るエラムを宥めながらアルスラーンが先ほどの部屋に戻ろうとするところへ、声がかかった。
「アルスラーン陛下、その石を賜ることはできませんか」
二人が振り向くと予想通りの姿がそこにある。今日のいくさの、影の立役者とも云うべき男。
「ほう? ナルサスは鉱石にも興味があったのか」
意外そうに軍師を見やるアルスラーンに、ナルサスはすこし回りくどくいらえを返した。
「異国に、最後に睛を描き入れたらその絵が命を得たという故事があります。私も最後の仕上げに相応しいものを探していたのです」
不思議そうな顔をするアルスラーン。
エラムは気づいた。つまり我らが師は本業──画業に勤しもうとしているのだ。エラムは少し高い位置にあるふたつの青を見つめる。
「この瑠璃は、砕いて絵具にするのです。ちょうど陛下の眼のような、美しい青になりますから」
いかにも、といった様子で肯くナルサス。
「そうだったのか。私に異存はない。職務に励むのも良いがほどほどにな」
以前よりも近くなったナルサスの肩を軽く叩く。アルスラーンは微笑して
「元はアルフリードの見つけた物だから、彼女にも礼を言っておいてくれ」
と付け加えた。それはもちろん、と笑顔を見せるナルサスの顔に驚きの色は見つけられない。時折、この智者はどこからどこまで知っているのだろうと薄ら寒くなることもあるが、今回は単に会話が聞こえていたのだろう。先からの会話は廊下で行っているし、ナルサスに与えられた自室はここから程近くにあった。
「しかし快くこれを譲ってくださったことにも礼がしたいと存じます。が、残念なことに肖像画を持ち込んではいないし……」
あれば今すぐにでも描きあげて献上するのだが。ぶつぶつ呟くナルサスは、二人が止める間も無く自室に引っ込んだ。かと思うと大して時間をかけることなく
「こちらは如何ですか」
そう言いながら出てきた。手には濃い土色をした小ぶりの壺をふたつ掲げている。その仕種はどちらかといえばクバード卿にこそ似合いのように思えるが、ナルサスも今日ばかりは浮かれているのだろうか。
「実はかなりの緑酒と聞いて取っておいたのですが、此度の戦捷の祝いにでも」
「良いのか?」
「勝利の美酒は既に味わいました、が、本業は宮廷画家ですので」
にっこりと目を細める軍師が、どうせやるなら勝つに越したことはないが、戦わずして勝つことこそ最上と考えていることは、師匠の薫陶を受けた二人にとって既知の事実。戦の勝利よりも質の良い画材が手に入ったことを喜んでいるらしかった。
「それではありがたくいただくとしよう」
頷いて踵を返したナルサスだったが、はたと足を止めて振り返る。
「そうだ、陛下、エラム。次はギーヴ卿の部屋を訪ねるとよろしいかと」
「『次は』」
「『ギーヴ』?」
仲良く師の言葉を分割した二人は顔を見合わせた。副宰相も兼任する肩書きの多い男は既に自室に戻っている。
「「なにゆえに?」」
「ふふ、布が酒に化けたぞ、エラム」
主君の嬉しげな声に自身の心も浮き立つのを感じる。二人とも、酒それ自体はさして好物というわけではない。だが、宴会の楽しげな空気をアルスラーンが好んでいることをエラムは知っていた。酒が入ったことで普段は見られない一面が見られたり、心の枷が緩んで大の大人がいっそ情けなく心情を吐露したりするのを可愛いと思っている節すらある。
エラムの方は大抵準備に進行、後片付けと、子栗鼠のようにくるくるとはたらいているため、宴会はどうかと訊かれたら「忙しい」の一言に尽きる。もう少し言葉を足すなら「忙しくしているのは嫌いではない。特に宴という平穏な場面においては」ということになるだろうか。結局、エラム自身もあの雰囲気が好きなのだ。
「愉快なこともあるものですね。それにしてもギーヴ様を訪えとは……」
「二度あることは三度あると云うし、またなにかに化けるのかもしれないな」
「つまり、この酒をギーヴ様にお渡しするということですね」
「そういうことになる。では、私たちはどこに向かうべきだろう、エラム」
眉尻を下げてアルスラーンが笑う。エラムもそれに苦笑を返した。
ところで、アルスラーンとその臣下たちの間には「先触れ」を出す習慣が無い。もちろん、公的な理由があって諸侯や諸外国を訪う場合にはきちんと先触れを出す。しかしこういった場面で臣下に対し、予め「何日のいつごろに訪れるので」と告げることはめったにない。
これはアルスラーンと彼の側近とも言える臣下たちが、王宮ではなく、旅の中で結ばれていったところによる部分が大きいだろう。自然の中に身分を隔てる壁は存在せず、手を伸ばせば届く位置にお互いがいた。
では先触れが無いことの何が問題なのかと問われれば、さしたる問題は無いと誰もが答えるだろう。天上にあって届かない光よりも、身をもって暖かさを感じられる炎の方が、ありがたさは大きい。
とはいえ、問題ではないが不便である場合はときに存在する。つまり、訪ねていった相手がいない、という事態。ことに、ギーヴ相手だと打率はぐっと下がる。もともと居を構える習慣のない男は、割り当てられた部屋で一人過ごすよりもどこかへ出ていることの方が多い。出先が広間か、誰かの部屋か、それとも敷地の外か。それは本人しか知らない。
そういうわけでアルスラーンは「どこを訪ねるか」と笑ったのだ。
「とりあえず、まずはお部屋から参りましょう」
「定石だな」
「ギーヴさま、おられますか」
エラムが扉を敲くと、ほどなくいらえがあった。
珍しい。二人が顔を見合わせる。エラムなど、すれ違いが何度も起きて数刻を無駄にしたことがある。ちょうど面倒な案件を携えていたので、避けられていたのかもしれないと今もエラムは疑っている。
「今日は運が良いな」
こっそりと声を潜めてアルスラーンが笑った。
「ようこそいらっしゃいました」
出迎えたギーヴはたっぷりと布を使った服に着替えていた。
「このギーヴめに、何かご用事で?」
言いつつ、果実水を注いで二人に差し出す。
「ああ。酒が手に入ったのでおぬしにと思って」
ギーヴは目をわずかに丸くした。
「適任は他にもいると思われますが」
「まあまあ」
三人が思い浮かべたのはおそらく同じ顔だろう。とりあえず飲んでみろとアルスラーンが酒壺の栓を開け、控えていたエラムが手際よく杯に中身を移してギーヴに差し出す。
「これは、相当……。前言撤回だ。陛下のその寛大な御心で、ひと壺、分けていただくことは。むろん只でとは言いません」
「もちろんだとも。むしろふたつとも譲るから、ファランギースも呼んで一緒に飲んだらいい」
「ありがとうございます。これはお礼をせねば……しかしおんなを紹介するのも喜ばぬお二方。なにを贈ったものやら」
顎に指を添えてしばし思案したのち、ぱっといたずらっぽく顔を輝かせる。
何を始めるのかと楽士を注視する二人の前でギーヴは徐に立ち上がり、その場でくるりと一回転してみせた。身体に少し遅れて後を追う袖に目を奪われていると、いつの間にか彼の指先に何か細長いものがつままれている。
よく見てみれば、それは植物だった。頭の重みで僅かにしなって揺れている。
「こちらを」
ぽってりとやや重たげに見えた先端は、紫色の小さな花がいくつも集まって咲いており、茎から伸びた卵型の葉は、平行な葉脈が走るのがはっきり見える。
受け取ったアルスラーンが花を顔に寄せてふわりと笑う。
「甘い香りがする。なんの花だい?」
すこし傾げた首にさらさらと銀糸が溢れて蝋燭の光を淡く弾いた。
「なんでもかんでも解き明かしてしまっては面白くありませんから」
ふぅん、と軽く頷いたアルスラーンは薄く笑って傍らの青年を見やった。
「エラム?」
主君の期待に応えるべく、エラムはすぐさま求められた答えを返す。
「そうですね。まだ萎れていないところを見るに、この近隣で見つけられるものでしょう。おそらく、ヘリオトロープかと」
今度こそ満足そうに頷いた青年は、自ら酒を注いでギーヴに手渡した。受け取った男が無言で肩を竦め、否定もしないところを見るに、おそらく当たりなのだろう。
「堪え性がなくて悪いね、ギーヴ」
「花言葉までお教えしてはいませんから、全てではないと主張します」
「その発言が既にほとんど明かしているようなものじゃないか。ひどいな」
苦笑してはいるものの狼狽の色は見えないあたり、追い討ちをかけたエラムの言葉は大した痛手ではないのだろう。年季の差というものか。
「ま、とにかくこれが、おれの精一杯の気持ちです、陛下」
ぐっと杯を呷ったギーヴは、アルスラーンの手から花を掬い取り、顔の横──アルスラーンの耳の上──に差し込んだ。
それからふ、と緩く微笑んで
「これだけじゃあ恰好がつかないんでね。果物でも持って行ってください。どうぞ、お好きなのを好きなだけ」
そういって優雅に礼をした。
ここまで来たら次は彼女だ、とファランギースの部屋を訪うと、
「そろそろ来られるころかと思うておりました」
と微笑みが向けられた。
「先見の才まで持っていたとは」
「いえ、そこの窓から楽しげな様子が見えておりましたので」
どの辺りから見られていたのだろう。アルスラーンとエラムは気恥ずかしげに顔を見合わせて苦笑した。
「少しは驚いた顔が見られると思って来たのだが。失敗だったようだ」
「なに、いらっしゃるだろうとは思うておりましたが、理由までは存じ上げぬ。どうか私めにお聞かせ願えませぬか」
促され、アルスラーンは経緯を話した。
隣国の王から女物の布が届いたこと。そこから奇妙な物々交換が続いていること。ギーヴから果物をもらったのでファランギースと交換に来たこと。
そこまで聞くと、ファランギースはその薔薇色の唇から屈託なく笑いを零した。
「ずいぶんと愉快なことをなさっておいでじゃ」
「ラジェンドラ殿には困ったものだが、お陰で皆を訪ねる口実ができたよ」
いつもは訪ねてもらってばかりだから、と王ははにかむ。
ファランギースは春光だけを集めて作ったような微笑みを浮かべている。ある種の慈愛というべきなのだろう、とエラムは思った。
「この、」
ほっそりと白い指が傍らの何かを指す。
戦場で弓引くよりも楽を爪弾くほうが似合うように思われる繊手だが、この手の持ち主である女性がとても──もしかしたらパルスの誰よりも──靭い心を持っていることをエラムは知っている。その気質は彼女の放つ矢のごとく鋭く明快だ。義に背くものをあやまたずまっすぐ貫く。エラムの、そしてエラムが心から信じ敬愛する師の戴く、ひとつ歳上の王が、精霊の声を聴く女神官の支えるに足る人物であることがこの上なく誇らしかった。
「盆を持っていかれるとよろしいでしょう」
たおやかな指は立ち上がった盆の縁をなぞっていた。少し深めの、杯が二つくらいは入りそうな大きさの盆。内側は朱に、外側は漆黒に塗り込められている。装飾は皆無で、削ぎ落としたような静けさを纏ったそれは、パルスで見かけるものとは一味違っていた。
不思議そうな顔をしている二人を見て、わたくしではなく精霊が、と仄かに笑んだ。
「なにやらこれに集っておりますゆえ。少なくとも悪いことは起こらぬでしょう」
「悪しきものを嫌うのだったな」
「はい」
ファランギースの部屋を辞し、次はどこへ向かおうか、とアルスラーンが指折り臣下の名を挙げる。
ずいぶん、増えた。
最初はただひとり、黒衣の戦士だけが彼の支え。次いでナルサスとエラムが彼の麾下に加わった。とはいえ当時のエラムにはどこか頑なな気持ちがあって、主君であるナルサスが仕えるから仕方なく、と思っている部分があった。しかしそれを厄介に思わず、身分差を飛び越え「友達になりたいのだ」と正直に言葉にし、その身と行動ではっきりと示されてしまっては、絆されないわけがなかった。
今となってはかけがえのない主君であり、命果てるまで仕え続けたいと思う。
そのために、迂闊なことは控えてほしいと常々思っているし、言葉にしてはいるのだが──
「あっ」
小さくあがった声の方へ揃って顔を向けると、女官がこちらへやってくるのが見えた。
「ご歓談のところ失礼いたします。準備が整いましたので大広間へどうぞ」
「もうそんな時間か。ありがとう」
失礼いたします、と頭を下げて遠ざかって行った女官の背を眺めながら、アルスラーンが口を開く。
「女物の布が異国の盆に。なかなかの戦果だと思わないかい」
出会った時から変わらない、無邪気な笑顔を向けられ、エラムは「そうですね」と返すしかない。この笑顔にどうも弱くて、迂闊なことおしのびを辞めさせることができないのだ。そしてせめて自分を連れていってくれと頼み込んだはずが、いつしか自分まで楽しんでいる。どうにも負けっぱなしな気がしてならないのに、悔しくはない。今日だってそうだった。これからもそうであってほしいような、そうでもないような。
それにしてもどこのものだろうか、などと盆を眺めまわしつつ、二人は大広間へと足を踏み入れるのだった。
「本日の勝利、慶祝のいたりに存じます」
「そなた達のおかげだよ、ありがとう」
宴も酣。改めて祝いの言葉を述べたダリューンにアルスラーンは労いの言葉を返した。
王は窓のそばに椅子を置いて呑んでいた。国王がそんなところで、とエラムは嗜めたが風が気持ちいいから、と押し切られていた。そこへダリューンがやってきたのだ。
ダリューンはアルスラーンの前に膝をつくのを躊躇わない。たとえエラムの目の前であっても羞じることなく跪いてみせる。そして、アルスラーンも躊躇わず目線を合わせ、手を差し伸べて立ち上がらせる。
この二人の主従を見る度に、気持ちの良い形であると心底から思うのだ。
「月は遠いなぁ」
「何かお悩みですか」
ダリューンが僅かに眉尻を下げる。
「いや、そのままの意味だよ。心配させたならすまないが、せっかくの美事な満月をもっと近くで見れたら、と思って」
「それでしたら、陛下。ちょうど良いものをお持ちだったではないですか」
「そんなもの、あったかな?」
ピンと来た。目を向けた先で、エラムの視線を感じ取ったかのように黒い縁がきらりと光る。きっと、あれのことだ。エラムは近くの卓に置いていた異国の盆を指し示した。
「陛下、あちらではないでしょうか」
「あれかい?」
「えぇ、少々お借りしても?」
「構わないよ」
鷹揚に頷いたアルスラーンは、何が起こるのだろう、という顔を隠しもしない。
「あまり期待されますな」
苦笑したダリューンが盆を持って広間を出ていった。
その背を見送り、アルスラーンとエラムの話題はまた盆に戻る。
「もしかしたらあれは絹の国のものかもしれませんね。我が国とはまた違った、高い技術を持っていますから」
「それならダリューンに聞けば何か教えてもらえるだろうか」
「何かしら情報は得られるかもしれません。ですが、ダリューン様は使節の護衛として赴かれただけなので、詳しいところまでは期待できま、せ、……そういえば、書庫に絹の国との交易品目録があった気がします」
「……エラム、明日、書庫整頓の時間を作ってくれ」
「恐れ入りますが、明日、陛下には謁見と視察の予定が入っております」
「そこをなんとかするのがおぬしだろう?」
「無茶を仰らないでください」
「何をなさっておられるのです?」
「あっ、ナルサス様」
「やぁナルサス。ダリューンが一計を案じてくれているので待っているところだよ」
「なんと」
片方の口角だけを上げる笑い方は悪友に対するそれだ。「いやはや、楽しみですな」
「揶揄おうという魂胆が見え見えだ、ナルサス」
かけられた声に振り向くと、卓を左脇に抱え、右手に盆を携えたダリューンが戻っていた。ところでその卓は、普段女官四人がかりで運んでいるはずだが……さすがは戦士の中の戦士といったところか。
窓際に卓を置き、その上に盆を載せる。盆には水が張られていた。何度か位置の調整を行ない、ようやく納得のいく場所を見つけたのか、ダリューンがアルスラーンを振り返る。
「お待たせいたしました、陛下」
「なるほど、水鏡か」
水面を覗き込むと、蒼白い月が揺蕩っていた。盆の装飾の少なさがかえって奏功したようで、やがて凪いだ水面は佳月の姿を寸分違わず映し取っていた。
ナルサスも杯を片手に盆を覗き込み、美事なものだ、と呟いた。
「おぬしにしては風流なことではないか」
「一言余計だ。お気に召されませんでしたか?」
後半は無論、王に向けたものである。アルスラーンは首を振る。
「ありがとうダリューン。そなたが武だけの男でないことはパルス中の皆が知っている」
「ありがとう存じます。ですが、」
ダリューンがまっすぐアルスラーンの目を見る。
「他の誰が知らなくとも、ただ陛下が知っていてくださればそれでよいのです」
「独り占めとは、贅沢な愉しみだ」
指を差し入れ、水月を弄んでいたアルスラーンが言った。「そして傲慢だという気もする」
「陛下はもうすこし欲張りになられた方がよろしい。今は無理だとしても、いつか。我らは望まれるのなら月さえその御手に」
ダリューンがアルスラーンを仰いで膝をつく。ナルサスは背凭れに片手を置いた。
「しかし、謙虚さが陛下の美徳でもある。その“いつか”が来るまでは、このナルサスの描いた月でもいかがです?」
この発言の数年後、後世「アルスラーンの半月形」と呼ばれる行軍経路がナルサスから提案されるのだが、この時点ですでにその考えがあったのかはわからない。彼のことだから「そんな馬鹿な」と一蹴はできない。しかし、単に本職を全うし、主君に絵画を献上するつもりの発言だったとも受け取れる。結局エラムには計り知れないほど深甚な師のことはわからない。
「そなたたちなら本当に叶えてくれそうだ。でもね、」
ただひとつだけ、エラムにもわかっていることがあるとすれば、己もまた、彼が望むことならなんであれ、捨身の尽力を躊躇うことはないだろうということだった。
「皆がこうして居てくれるだけで、私はもう十分なんだよ」
頭上と手元、二つの盈月を従えた王は夢のように美しく微笑んでいた。
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