譫 妄
ふと影が過った気がした。足元を見ると、丸を串刺しにするかのように一本の線が飛び出ている。
天を見上げた。
目を灼く光に紛れて見えるあれは。
◇
ふと通りかかった中庭に、ひとりイスファーンが棒立ちになっていた。
殿下の瞳を思い出させると人気だったイキシオリリオンの花は、暑さに耐えられずとっくに萎びて、撤去されている。今その中庭にあるのは乾いた敷石と、流れの止められて干涸びた噴水だけである。見るべき物などなにも無い。
イスファーンは片手を目の上にかざして、空を見上げている。ぼうっとしている、で済ませていいのか疑問になる雰囲気を醸し出して、じっと空中を見ているイスファーン。所在無さげ、というのとはまたちがう。自他の境界が曖昧になって、放っておけば周囲に溶けこんで消えそうな、妙な存在感の薄さ、とも言うべき空気を感じ取ったギーヴは足を止めた。
日輪はほぼ中天にある。
あんなものを見ていたら目が灼けてしまうだろう。ただでさえ弓はおれに劣るのに。聞かれれば一言余計だと顔を顰められそうな発言を胸の裡にしまいこみながら、回廊から光溢れる中庭へと歩み出た。
「何かいたか?」
「……林檎が……」
「はぁ?」
いらえはあった。あったがしかし、いつもの闊達な様子はどこにもない。軍籍にあって、土埃にまみれながら麾下に号令を発している男とは思えないかそけさ。ざらついた声が、唇を僅かにこぼれ出たという程度の勢いしか持たない振動は、空気を伝ってなんとかギーヴの耳に達した。その間もイスファーンはこちらには一瞥もくれず、一心に空を見つめ続けている。
ギーヴも彼に倣って空を見上げるが、そんなものはどこにもない。腹立たしいほど真っ青な、雲ひとつない快晴だ。色彩はぞっとするほど鮮やかで、日陰から出たばかりのギーヴにはすべてが光を放っているように眩ゆい。
そもそも今は夏の盛りで、林檎が採れる時期などではないのだ。
暑さで頭をやられたか。そう問いかけようとイスファーンに向き直って、ギーヴはかれが纏うおかしな雰囲気の原因にようやく気がついた。
彼はまったく、汗を、かいていないのだ。
首筋にも額にも汗が流れた跡はない。服に染みひとつ見当たらない。涼しい顔をして見せているギーヴ自身でさえ、背中に張り付く上衣に辟易させられているというのに。
そもそも、一体いつから立ち尽くしていたのだ?
首の裏の産毛が逆立つような心地がした。とにかく日陰に移動させねば、と腕を掴んだ瞬間、イスファーンの体がぐらりと大きく傾いだ。
◇
枕元に誰かいる。
誰か、なんて問うまでもなかった。
「 ぁ に、うえ……」
乾燥のせいか出したはずの声はざらつきひび割れて、きちんとかれの耳に届いたかわからない。
けれどその人はちゃんと気づいてくれるということを、自分は身をもって知っている。己が今ここに生きて存在すること、それこそがなによりの証である。
……だからこそ、隠そうとしたのだけど。
大きな掌がイスファーンの眼を覆い隠す。
「寝ていろ。次に起きたときには説教だから覚悟しておけ」
まだ熱があるようだ、そう言って離れていこうとする手を慌ててつかまえる。
眼ではなく、額に触れていたのか。
ほっと息をつきながらぼんやりとそんなことを思った。兄の手は幼いイスファーンの顔半分を容易に覆い隠すほど大きく、乾燥と細かな傷痕のせいで頬を擦り寄せるとわずかに引っかかりがあるけれど、それも含めて、あたたかくて強くて、イスファーンの好きなもののひとつだ。
この手が冬山から、すべてが冷たく固く凍てついた場所から、おれをすくった。
頭蓋の内側から殴られているような痛みで目が覚めた。
窓が唯一の光源である室内は、薄暗いが全体的に清潔感があり、それがゆえに他人行儀さも醸しだしている。医局の寝台の上だ――とわかるのはそのいかにもなよそよそしさと薬のにおいのせいだった。枕元に人影は見えず、細く息を洩らした。
倒れたか、と他人事のように思う。まるで明かりが頭痛の原因であるかのように、イスファーンは両手できつく両の眼を覆った。
――叱られる。
『自身の体調管理もまともにできん者に、隊など預けられるか』
かつて不調を押し隠して稽古に出たイスファーンに兄はそう言って叱った。あれはいつのことだったか。
のそりと身を起こすと、見張ってでもいたかのように白髪混じりの男が部屋に滑りこんできた。遠慮も迷いもない足運びは、足の持ち主がこの部屋の主である証拠だ。
「暑さにやられたんでしょう。まずは水分を摂ってください」
左手の玻璃の水差しが差し込む陽光を方々に跳ね返して輝き、その様子に目を奪われていたイスファーンは差し出されていた器に気付くのが遅れた。
小ぶりな杯の半ばまで注がれた水は何か果実を搾ってあるのか、清爽な香気を漂わせている。口をつければ思っていたよりも体が欲していたようで、飲んだはしから乾いた砂に染み込むように水が沁みた。
喉を鳴らして飲みきったイスファーンから杯を受け取ると、医師は寝台脇の簡易的な床几に腰を下ろし、手のうちで杯を玩びつつ問うた。
「中庭に突っ立っていたと聞きましたよ。なんだってそんなことを?」
「おれがか?」
こんなに暑いのに、と外に目をやって他人事のように呟くと、いかにもと言いたげに顎髭をなでながら深く頷き返される。
「あなたが、です」
「うん……どうにも、倒れる前のことはぼんやりとしていて思い出せない、な」
「記憶の混濁、ですね。無理に思い出す必要はありませんが……」
男は一度、すい、と左に目線を流したが、すぐさま向き直った。
「他に何か不調はありませんか?」
「頭痛がする。それ以外は特に」
医者は杯を転がす手を止めて、本当に?と言いたげな目でこちらをちらりと窺った。
医者というものはみなそういう顔をする。隠しごとをしてはいないか、全てを詳らかにせよ、と冷めた目を投げるのだ。それはおそらく、一度ならず偽られた経験がかれらにはあるからだろう。疑いたくて猜疑の眼差しを投げるのではなく、また患者も偽るつもりで隠匿するのではない、が、結果としてすれ違いが起こることがえてしてあるのだ、きっと。
かつて、とある兄弟もそうだった。
おそらく冬の終わりだったと思う。まだ吐き出した息が白くなっていたけれど、足もとに雪はなく、あたりに漂う草葉の青い匂いを覚えているのだから。
足音を聞いた気がして目覚めた。
「目覚める」という言葉が適切かはわからない。だって眠っていなかったような気もする。のったりとした空気が、蝸牛よりもなお遅い調子で周囲をめぐっていて、その流れが戯れに頬を撫でるのを感じていたのだ。寝ている時は何も感じない。逆に、何かを感じていたのだから先刻までのおれは起きていたのだ。
そんなことを鈍重な頭でぐだぐだ考えていると、魯鈍な空気を切り裂くように翠の清涼な香りが流れ込んできた。怠さなど一瞬で吹き飛んで、勢いよく上体を起こす。期待に顔が火照った。いまいち調子の良くない鼻だが、これは間違いない。
「兄上!」
と、その人が入る前から声をかけていた。
扉の開閉に伴って起こった風が燭の火を揺らす。須臾の間、青くしかし甘い香りは鼻先から掻き消えたがまたすぐ揺蕩いはじめた。胡桃色に滲む闇のなかから現れたのはやはり異母兄、シャプールだった。憂慮と諭旨が混ざったような、複雑な顔をしている。
「声を抑えろ。今は真夜中だ」
「申し訳ありません、兄上。以後気をつけます」
「うむ」
一旦厳しい顔を解いたシャプールは、素朴な木の椀を差し出した。匂いのもとである。
「それを食べ終えたら説教だ」
「これは?」
「林檎を細かく刻んだものだ」
「兄上が?」
それがどうした、と兄は片眉をくっと持ち上げた。
拳を天に突き上げ快哉を叫んだ。無論内心だけで。おそらく顔が緩んで紅潮しているだろうが、それは熱のせいだと誤魔化せる。
自分のためだけに、兄自らの手で用意されたもの。それがたとえ世間的にはなんら価値のないものであっても、自身にとっては値千金に勝ると本気で信じている。
なにせ、本来ならあの山で終えていただろう命だ。その宿運を曲げただけでなく、不自由なく生きられるようにしてくれた。奥方さまと旦那さまの間に挟まれ差し込みのきつい日々だろうに、原因の子どもを疎ましがることは一切しない。
半分は同じ血が流れているとはいえ、イスファーンの救出は義務では無かったのだ。嫡子さえいれば家は続くのだから、わざわざ後難の種子を持ち込む必要も無かった。たとい体面や外聞のためという打算から救出をしたのだとして、誰が非難しよう。その後命に別状なしと判明した時点で放逐しても、あるいは別家に養子として出したって何らの問題はなかったように思う。
それを。弟の身分を正式に与え、あまつさえ騎士として育ててくれている。
ぎゅう、と椀を抱きしめた。過剰な華福康寿を享受しているといって、いつか取り上げられてしまうのをイスファーンはいつも恐れている。いまイスファーンにとって怖いものといえばそれだけだった。ことによると自身の生命よりも。
いつまでもそうしていたかったが、だんだんとシャプールの顔が不審そうに顰められていくので、仕方なく匙を手に取る。
歯ごたえがわずかに残る林檎にはそれ自体の甘みとは別に、頬が驚くぐらいの甘さがあった。舌が慣れないほど貴重な蜂蜜。声を掠れさせた自分を思いやってのことだとすぐに思い至り――やはり残しておけないものかなぁ。顔が歪む。目の周りが熱くなるのを感じ、努めてなにも考えないように、機械的に匙を上下させた。
「さて」
シャプールが腕を組みなおし、至福の刻は終わりを告げる。
「お前は今日の鍛錬で倒れたな。原因は?」
いかに伝えるべきか。「訊かれたことに簡潔に答えなさい。お前の主観と客観的事実を分けて報告しなさい」とは事あるごとに言われている。
理解はできる。情報の精度は生存率と密接に関係し、たったひとつの判断が戦況に大きな変化をもたらすこともある。戦場において伝令に長々話されては困るだろうというのは想像に容易い。
だが、理解はできても実践できるかどうかはまた違う話なのだ。自分には不要と感じられても兄にとっては違う。伝えなければと思って言葉にすると、それは私情だと言われる。おそらく、自身には経験が足らないのだろう。だから現場に立つ者であるシャプールの言葉はとてつもなく重くて大きい。飲み下す以前に、噛み砕くのに苦労しているような状態が今のイスファーンである。
とにもかくにも、今からおのれは大の苦手である報告をしなければならない。しかも兄の最も嫌う種類の報告である、事後報告を。
手のひらに伝わる木の温みだけを意識した。大丈夫、兄上は怒るけど失望はしない。
「倒れた原因は体調不良、です。おそらく風邪をひいていました。ですが、今朝起きた時にはそれほどひどくはなく、普通に動けていましたし、昼にはなんともありませんでした」
ここまでほとんど一息に言ってから、今の後半は要らなかったかもしれない、と少し冷や汗をかいた。ぎゅっと拳を握って唾を飲み込む。気をつけないと視線が膝に落ちそうになる。無理矢理顔を持ち上げて視線を合わせた。
「風邪の原因はおそらく昨日の鍛錬後、汗の処理を怠ったからだと思います」
その後なんと言われたのだったか。緊張のせいで記憶は確かではない。
「不調を隠すな」言われた気がする。
「最初から言ってくれた方が結局あとの面倒が少ない」これも。
そうして最後に「心配した」と。喉の締まったような細い声で呟いていた。
犬牙が相制するようなあの家の中で、変わらず前に立っていてくれる人だった。いつでもその背を見上げていた。遥かに聳える壁じみた背はきっぱりと廉潔で、かくありたいと目指す標として眼裏に焼きついている。顔を仰向けて、目を閉じればいまも――
心地よい水音に、我に返った。見れば向かいの壁際で、医者が先ほどの杯に水を注いでいる。水位は半ばを過ぎて、八分目を過ぎて、それでも上昇し続けて、「おい、」声をかけても止まらず、縁から溢れたところでようやく注ぐのを止めた。
「誰しも、容量以上のものを受け入れることは不可能です。溢れた水は手に入らないし、集めることは叶わない。乾けば見えなくなり、なかったことになる」
振り向いた男は、杯を手に足をすすめる。踏み出すたびに揺れた杯から手を伝ってと雫が落ち、足跡を残さない男の代わりに点々と続く。
「何が言いたい」
「今あなたの器は満ちる寸前です。いえ、もしかしたらもう溢れているのやも」
見えない印の上で立ち止まる。傾いた陽は首に線を引いたようにすっぱりと上下で明暗を分け、男の表情を見せない。
なにかを受け止め損ねたのだろうか、自分は。
乾けばなくなる導。目に見えないものは「無い」ことになる。
あたりに沈黙が満ちるなか、慎重に杯を持ち上げた男はそのまま口もとまで運んでいき、喉を鳴らして勢いよく飲み始めた。
「!?」
「実は、私も喉が渇いていまして……」
冷たい沈黙は一気に霧散し、予測できない妙な挙措に目を見張るイスファーンと、眉を下げてはにかむ男だけが室内に残される。
「ええと、その……水分補給は大事だな?」
「その通りです。あなたも怠らないように」
「…………」
噛み合っているのか、この会話は。
イスファーンの無言をどう捉えたものか、医者は心配そうな顔をした。好々爺というにはまだ若いが、いずれそうなるだろうという予感がする。ひとの世話をするのが好きという類の人間の顔だ。
「まだぼんやりしているようですね。あと数刻は憩んでいきなさい」
「えっいやしかし、」
「陽が落ちるまでちょうど二刻ほどありますから、最低でもそれまでは辛抱なさい」
「だから、」
「今日倒れたのには確実に疲労が一役買っています。疲労には憩みが一番の薬です、わかりますね? これ以上口ごたえするようなら寝台に縛り付けます」
「はい……」
口ごたえも何も、接続詞しか差し挟めなかったのだが。憮然とした顔を目の前にしても全く気にならないようで、医者はにっこりと笑ってみせた。
「うん。いい子ですね」
もしかしたら彼は、イスファーンの知らない母親という生きものに似ていたのかもしれない。
医者の言う日没までひと眠りするつもりが、気づいてみれば深夜になっていた。想像以上に疲弊していたのかもしれないし、飲み干した水に何か混ぜてあったのかもしれない。あの医者ならやりかねん、と妙な圧をもってイスファーンに対した男の顔を思い出す。
「そういえば、誰が……」
開け放ったままの窓から冴えた月白の光が差し込み、室内の様子をわずかに浮き上がらせている。仄青く照らされた床は扉に向かうにつれて藍へ、縹へ、そして漆黒へと暗くなっていく。その冷たげな色合いとは裏腹に、熱をはらんだ生ぬるい風が窓から滑りこむ。じっくりと熱射に焼かれた石畳の上を渡ってきたのだろう、埃っぽく渇いたにおいがする。
平和だ、と壁に背を預けながら思う。夷狄による侵入を退け、王位をめぐる争乱も差し当たり落着したいま、内外の緊張感は薄れている。既得権益を取り上げられた古株の連中は歯軋りして悔しがっているようだが、徒党を組んで現王朝の打倒を試みるほどの胆力もない。ことを為すには天、地、人、すべてが揃っている必要があるらしいが、そのどれもを用意するほどの才があれば既にそれなりの地位に就いているだろう。つまりしばらくは軍に大きな動きはないと考えていい。統制官の仕事も同様。
黙考しているイスファーンの耳にほぅ、ほぅ、と陶笛のような鳴き声がすべりこむ。
「梟……」
呟きとほぼ同時、これが天運なのかもしれない、そう思うような閃きが脳裡を奔った。
夜明けを待たず、イスファーンは城壁へ足を運んでいた。眺めているのは星々のきらめく空……ではなく眼下の地面だ。まだ早朝とも呼べない刻限、濃い闇がわだかまっており地表の様子は見えない。だが、城壁から身を乗り出し必死に目を凝らす彼の眼輪のあたりにはぐっと力が入っている。
あの辺りに、あったはずなのだ。梟されたシャプールの姿が。一般兵士の目にも彼とわかったそうだから、さほど遠くない位置に。
「やはり」
だが、いまイスファーンの目に彼は見えない。当然と言えば当然だが、それが証に思えた。
誰が倒れた自身を医局へ運んだのか。それを訊き損ねたイスファーンは、その人物について考えを巡らせていた。
医者の口調は明らかに、イスファーンが倒れる直前を目にした人物と接触していることを物語っていた。その者によって自分は医局へと担ぎ込まれ、医者は経緯を知ったのだろう。
一体、誰が。足早に城壁を後にしたイスファーンの胸中にはこの問いに対するひとつの解があった。それがどれだけ荒唐無稽なものであろうと、イスファーンは見ていない。梟されたシャプールは見えない。
馬鹿馬鹿しいと頭の片隅で思ってはいる。しかし一縷の望みを捨てきれないのはイスファーンが兄の弟だからであり、イスファーンがイスファーンたるその土台がそこにあるからだ。
熱に浮かされたように、足はどんどん早くなっていく。ついには走り出したイスファーンの向かう先は厩舎だった。
これ以降、イスファーンの足取りは突如として途絶える。
木下闇
案外人間は頭上に注意を払わない。たとえいたとしても小動物か烏兎か。自分たちよりも高きにあるものを無意識のうちに想定から排除しているところに、人間といういきものの傲慢さを感じ、ギーヴは面白くおもう。
森に潜んでいるギーヴは、そんなわけで木の枝の上に身を潜めていた。
別段、追われているとかいうわけではない。ただ、地上にいるのといないのとでは降りかかる面倒の数がちがうということを知っており、今は面倒を避けたい気分だった。
頭上は色濃く青々と繁っている。牛の胴ほどもある枝は硬く締まって、ギーヴ一人を乗せてもなお余裕がある。
まもなく昼飯時、というころ、射手の目が森を抜けた先の丘に舞う土煙を捉えた。
こちらに向かってくる。複数の騎馬だ、と判じた時点ですでに弓を手にしていたが、どうやら追われているのは男だとわかり、傍観の姿勢に入った。
先頭の騎馬は巧みな手綱捌きで追手を躱すも、馬の憔悴が激しく今にも倒れそうである。健気に主人に応えているが一度倒れたらもう立ち上がれまい。馬上の男もそれはわかっているらしかった。対して、追手の五騎にはまだ余裕が見え、長引けば長引くほど追手の有利に傾くことは歴然である。
優駿は距離を稼いでから森の入り口で停止した。騎り手は労るように頸をひとつ叩いて馬を解放し、木の幹を背中にして賊に相対した。
近づいたことで声が風に乗って聞こえてくる。
「誰かと思えばファルハーディンではないか」
聞き覚えのない声に異名を口にされ、イスファーンは僅かに身を硬くする。
「どこかで?」
「いや。ただパルス軍には恨みがあってね」
「なるほど、わかりやすい理由だ」
そう応える間に賊どもは左右に散開し、油断なく男を眺めていた。
「言っておくが、大したものは持っておらんぞ」
先ほど馬も放してしまったしな、と腕を広げる。それにつられて馬を降りるという愚を犯すということもなく、首領格らしき男が「それはまた後で捕まえればよいこと」と笑う。
森を抜ける砂色の風がひときわ強く吹いた。
先に動いたのは賊の方だった。だが悲しいかな、農工商と騎士とではまるきり動きがちがう。
イスファーンは身につけていた外套を投げつける。風に乗ったそれは賊の一人の頭に絡みついた。手綱を持った手で引き剥がそうとして綱をきつく引く形になり、抵抗するように馬が暴れ跳ねる。その間にイスファーンは別の一人を馬上からたたき落とし、更にもう一人の首筋を得物の腹で打っている。右から斬りかかってきたのを避けざま膝の関節を蹴り砕く。男が馬を落ち着かせ、外套を振り払ったころには既に三人が地面に倒れ臥していた。正面からまともに眼光を喰らった男は泡を喰って逃げていった。
結果的に、三つの呻きと叫びだけがあがって周囲は静まりかえった。残るは静観していた首領格の男だけである。
「おぬしは」
言葉少なにイスファーンが進退を問う。
「一太刀くらい浴びせなきゃ恰好がつかないからな」
言いつつ持ち上げた剣は鈍く日光を弾き返した。
「手加減してくれていいんだぜ、騎士様ッ!」
言葉とともに駆け込んできたのを飛び退って避けると、馬の脾腹めがけて蹴りを放つ。痛みと驚きに跳ねた馬から男が振り落とされ短い呻きを放った。なおも立ち上がり気丈にも振りかざした腕を、イスファーンは片手で抑え、もう一方に握った剣の柄で鳩尾を殴打する。くの字に折れた体の脚を払って地面に落とすと武器を蹴って遠ざける。
「あ〜あ、降参だよ」
腹を庇って丸くなった男が力を抜いてそう言った。手加減してくれって言ったのにさぁ、と呟く男を無視してイスファーンが上から顔を覗きこむ。
「おぬし、パルス人であろう? であればなにゆえ自国軍に恨みを持つのか、聞かせてくれないか」
「……負けたからだ」
はっと息を呑んだイスファーンは顔を厳しくして黙っている。男は人が変わったように捲し立てる。
「負けたからだ! パルス軍が負けて国王が逃げ帰ってきたせいでおれは畑も家も失った、妻は……っ!」
男のきつく握られた拳から血が垂れるが、それに構わず男は拳を地面に叩きつける。
「今更王都取り返したってもう遅いんだよ! 最初から負けるなよ、それが仕事だろ!?」
「そう、だな……」
悲痛な叫びに対し、正しく怨むべきはルシタニアなのだと言わないところが彼の甘さだった。
「命までは取らない。王都に戻って仕事を探せ」
イスファーンは縄をかけなかった。おそらく持ち合わせていないせいもあったが、捕らえるつもりなど毛頭なかっただろう。そもそもイスファーンは職務を放棄してここにいる。
だが、馬を呼び戻そうとイスファーンが背を向けたその瞬間、男がそこらにあった手頃な石を握りしめ、咆哮とともに頭めがけて振りかぶった。
やはりこうなるのか。諦念じみた思いで放ったギーヴの矢が上腕に突き立つ。次いで太もも。
「ぎゃっ」
矢音と悲鳴に振り返ったイスファーンが驚いて、いま、止血を、と駆け寄った。砂地に赤黒い染みが広がる。
「ああ痛ェ、もう、こんなんで、働けるわけないだろ、馬鹿か。……もうさっさと殺してくれ」
喘鳴まじりのそれを聞いたイスファーンはざっくりと傷ついたような顔をして、しかしそう願うのなら、と鞘から剣を抜く。
「……サラ、ヌーリ……」
家族の名前だろうか。かぼそく紡がれたそれに一瞬イスファーンの動きが止まるも、結局掲げる手は上がりきり、そして風を切って振り下ろされた。
陽光を鋭く弾き返す鋼が一閃して、鈍い音が辺りに響いた。
わざと足音を立てて歩み寄ると、それに気づいたイスファーンが顔を上げる。どこか期待に満ちた眼差しが敵愾心へと色を変えるのをまざまざと見た。
「なぜ、貴様が――!」
「なぜと言われても。礼ならまだしも」
ぎり、と強く噛み締めたのが聞こえるような剣呑な表情と、それに似合わない痛苦に軋む瞳を受け流す。
「たかだか十にも満たない賊と、一応とはいえ国の柱の一本たるおぬしでは命の価値が違う」
「命の価値に、」
「でなくばおぬしは人を殺せるはずがあるまい?」
ギーヴは遮るように言葉を被せた。あの男にも家族があったことを知っている、家族を失う痛みを知っている。であるならばたとえ懇願されたとしても生かそうとするべきなのだ。
「結局おぬしだって命に序列をつけてるのさ」
肩をすぼめるようにして言葉を突きつけると、眼前の男の白目が刃物のように光って剣を抜く。
「これだから短気な男は」
足もとを狙っての薙ぎを軽く跳んでかわし、イスファーンの背後に回って羽交締めにする。得意なのはわかるが、そう何度も同じ手にかかるものか。
ほとんど同格のはずの膂力は、しかし今この瞬間においてはギーヴが確実に優っている。
「その程度の技倆でおれが殺せると思ってるならとんだ見込み違いだな」
「この程度、一人でどうにでもなった」
そう呟く声は砂埃のせいと誤魔化せないほど掠れて力がない。そんな状態で言う台詞ではないな、と未だ力を抜かないイスファーンの体温を感じながら思う。手のひらから無理矢理剣を引き剥がして体を離すと、僅かによろめいてから地面に座り込んだ。
湿り気を多く含んだ風が二人の間を通り抜ける。
「こんなところに何用だ。ゲラハにでも向かっていたのか?」
ギーヴは呑気に尋ねる。それに毒気を抜かれたのか、殺気は褪せていた。
「違う。だいたい、あるかどうかもわからぬ、伝説の都市だろう」
「あるぞ」
「え?」
「冗談だ。ゲラハではないが、向こうには小さな街がある」
滑稽だとさえ思う。ゲラハを伝説、と一蹴するくせに兄の俤にいまだ追い縋ろうとしているところが。
イスファーンがギーヴの手から引ったくった剣を地面に突き立てて支えにする。ふぅ、と重く湿った息をひとつ吐き出してなんとか立ち上がるのだが、頭をふらつかせてなんとも危うげなことこの上ない。
思わず支えた手にぬめる体液の熱さを感じて、ギーヴはため息を吐いた。
黒い雲が、重く垂れ込みはじめていた。
瞻 望
「林檎が落ちてくるんだ」
そう言ってイスファーンは語り始めた。
それは先日中庭で倒れてからというもの、たびたび見るようになった――
人の営みに磨かれ擦り減った石畳に、墨染めが突如として現れる。茹だってぼんやりとした頭がようやく、地面に落ちた影だ、と気づいて、イスファーンは緩慢に顔をあげる。するとそこには初めて見るような、しかし既視感のあるような、そんな景色が広がっているのだ。それを、絶望的な気分でイスファーンは眺めている。おのれにはそうすることしかできないと、どうしてだか知っているのだった。だから今もまた、体内の臓器をごっそり持っていかれたみたいに空虚な無力感だけを抱えて、馬鹿みたいに眺めている。
射抜かれた林檎が太陽を背に、果汁を撒き散らしながら落ちてくるのを。
荒涼とした大地を渡ったせいで砂の混じった、冷たい風が前髪を吹き上がらせる。
――そんなはずはない。今は夏だ。
眩しさに目を細めながら、近付いてくる林檎から目を離せずに、ただ頭をかばうように手を翳した。
目を背けることも、瞑ることもできずに、ひたすら見ている。
落ちていって――その先を、イスファーンは知らないままだ。
意識朦朧としていたイスファーンを宿へと連れ帰り、所用を済ませて部屋に戻ると、寝ていたはずの男が突然話し始めた。
話を聞き終わったギーヴは思わずため息を吐いた。だってそれは、どう考えても。
「言っておくが、」
否、おれが口を挟むことでもないか、と考え、唇の手前で別の言葉にすり替えた。
「おれもおぬしも、人間だ。そしてシャプール卿も。おぬしにとってどんなに強く、どんなに正しく見えようとも、人間以外の何者でもない」
ギーヴとシャプールの間にあるのはただ一つのやりとりだけだ。
請われ、叶えた。
たったそれだけだ。向こうはギーヴの名さえ知らず、ギーヴもイスファーンと出会わなければ、パルスの万騎長だという以上の情報を知り得なかっただろう。それでも、いや、だからこそ、イスファーンには見えないものが見える。
同じパルス人の手で死にたいと願ったのは、せめて良いかたちで死にたいと思ったからだろう。犬よりも惨い死に様なんていくらでもある戦場で、せめて尊厳を守られたいと思ったからだろう。それはつまり、人間らしく扱われたいということではないのか。
「間違え、傷つき、時に膝をついて項垂れることもある。それを見ずに善とか正しさだけを見て追うのは行きすぎれば狂気ともなろう」
おかしなことだが、ひたむきな狂気は、ともすれば奇しいうつくしさを纏わせる。
「今のおぬしは、鬼火だ。目的地も告げずに彷徨う」
外では雨が降り出したらしい。外界から包み隠されたように、自分たちの立てる音しか聞こえない。
「炎は人を惑わせる。管理できないのなら使うべきではないと思うが」
目を覗き込んだ。煮詰めた蜜のような重みのある黄金色。イスファーンは押し黙っている。
「熱に中てられ、焦れて事を起こす者が必ず現れるだろうよ」
かつてのルシタニア軍がその例だろう。銀仮面卿の熱がルシタニアの王弟を炙った。ルシタニアという国を薪に、信仰と侵攻とを油にし、熱狂的に燃え広がった火焔は誰にも止められずマルヤム、パルスを焼き、そしてルシタニア自身もついには燃え落ちた。
人は熱が無ければ生きていけない。それはある一面においては真理だろう。しかし熱が物事を不可逆なまでに変質させるのもまた事実なのだ。そして、眩ゆいものは自らを燃やして輝いているということも。適切な距離と扱い方を心得ていないなら、持ち出さない方がはるかにましだ。自身にとっても、その周囲にとっても。
使いようだろう、とイスファーンが呟いた。
「どんな理由で灯された火だろうと、適切に管理できる人間が使えば国を照らすこともできるだろう。おれは、アルスラーン陛下こそ、それができる人だと思っているし、軍師殿はうまく利用してくれると思っている。だから」
その陛下が既に星だろうに。そう思ってギーヴは瞑目する。
太陽と言い換えてもいい。とにかく、彼のそばには多くの聡明な大人がいて、彼らは無闇に灼かれないし灼かせようとしない者たちだ。扱いを弁えている。しかし下に目を向けてみれば、そこにいるのはただの一般兵士たちだ。大地に太陽がひとつで足りるように、組織に旗頭はいくつも必要無い。そんなこと、わからないイスファーンではないだろうに、あまりにも頑是ない顔をするからギーヴは口を挟めない。
「燃え尽きても本望なのだ」
静かに、だが確かにイスファーンはそう言い切った。
「なぁ、言ってやろうか」
噛みつかんばかりに睨む目を真っ直ぐ見下ろす。
「おぬし、とうに気付いているくせに見ないふりをしているのだろう。だから、教えてやる」
暴れられないよう、腕をまとめて寝台に押さえつけた。耳を塞がせないためでもある。
「おい、やめろ」
「それは、幻覚だ」
抵抗がぴたりと止まる。イスファーンは表情をほとんど動かさなかった。聞こえているのかすら疑わしいほど、身を硬くしたまま人形のように何も反応を示さない。それが、妙にギーヴの癇に障った。
一度は本気でおれを殺そうと向かってきたくせに、いまだおれに敵意に燃えた目を投げるくせに、北西の稜線を睨み据えてばかりいるくせに。一度も納得なんてしていないのに。利口ぶって受け入れたふりをしている。
追い討ちをかけようと、声を低めて続けた。いっそ柔らかな低音で、快なることを語ってでもいるように。
「おれが脳天を打ち抜いて殺した男、おぬしの敬愛する兄、その最期の瞬間を、幻に見ているのだろう」
林檎などではない、頭だ。
飛沫といえどそれは、爽やかな香とは程遠い、鉄臭い血飛沫だ。
「だが、その幻覚は現実ではない。だから、間違いがある。真実ではなくおぬしの想像に過ぎないことをおれは知っている。なぜなら、首はとばなかったからだ。血飛沫も多くはなかった。最後まで天を見ていた」
ギーヴはこの目で、確かにそれを見た。
こめかみを伝って、汗が滴り落ちた。
重さと鋭さをもった言葉が、たしかにイスファーンを抉ったという手応えがあった。乾いた目の奥底には怯え竦む色が見えた。
夢を売って歩くわりに、ギーヴは現実的だ。いやむしろ、夢を売るからこそ、なのかもしれない。表裏一体の片側だけを見ることができないように、夢を夢と知るためには現実も知らねばならないのだ。だから夢を売るひとは現実を突きつけることもできる。客観的に見て、自身の吐きだす言葉にはそれなりに力があるとギーヴは思っていた。
しかしいまは、抉って、それだけだった。たしかに力はあった。けれども男は傷口を庇うことも、痛みに叫ぶこともしない。それがあまりに痛々しく感じて、泣け、と半ば反射的に願っていた。
暑さは人をゆるませる。体も心も。
これはひとつの理であるはずだ。そうでなければ「ひと夏の」なんて枕言葉があろうはずもない。
だというのにこの男の頑なさはどうだろう。多少薄い布にしているものの、変わらずきっちり着込んだ外身、強制的に倒れるまで休まない身体。受け入れたふりをして、しかし未だ見ていない、と真実から目を逸らし続ける矛盾に軋む感情。
夏にさえ解凍しない心が、一体いつ弛むというのか。
――それとも、強制的な弛みの結果が、これなのか。
そう思った途端、妙な感情がこみ上げてきた。あわれみと怒りと恐怖とが混ざったような複雑な感情だ。それはなぜか庇護欲にも似た形をしていた。
さてどう整理をつけようかと思案しようとしたとき、
「泣いたさ」
やけに凪いだ静かな声がぽつりと落ちた。
「昼も夜もなく泣いたとも。泣き叫んで咽び泣いて泣いて泣いて泣いて、とうとうなにも出なくなってようやく気づいた。これは、泣いてどうにかなるかなしみではないのだと。かなしみですらなかったのかもしれない。とにかく膨大な喪失があった。何をしても埋まらないまま、今もそれはある」
中庭の涸れた噴水を思い出す。
「そうだ。とうに涸れきって涙なぞ出ようもないのだから、いまさら汗なんて」
かれらしくない、乾いて嘲笑じみた笑いをこぼす。
中庭の涸れた噴水の傍らで倒れ込んだ、イスファーンを思い出す。かれがひとしずくの汗もかいていなかったことも。
噴水であるとわかるのは、水が流れていたことを知っているから、見ているからだ。本来の姿を知るがゆえに、水のないただの石積みにも噴水の姿を見るが、やはり本来の用途として水が流れているのが正しい在り方だ。イスファーンがいうのはそこなのだろう。
兄を根底に宿し、兄ありきの存在だと自らを定義するイスファーンにとって、兄の空席は水の無い噴水である。今の状態は彼にとって正しくないのだ。
はっとした。
かれは既に諦め、受け入れているのだ。諦められない、ということを。
相変わらず渇いた目のまま、優等生のイスファーンは語る。
また来てくれるのではないかと思ったのだ、と。
ヒルメス殿下だって皆から死んだと思われていたが、生きていたではないか。だから、また、困っていたら迎えに来てくれるのではないかと思ったのだ、と。
羨 望
出奔の理由を、イスファーンは魔が差したとしか答えなかった。さすがに兄を探しに行ったとは言えなかったとみえる。無断で仕事を放棄し、国王の信に背いた彼には半月の謹慎という処断が下ったが、
「本来ならひと月謹慎、あるいは千騎長以下に降格処分というところだ」
とは宮廷画家の言葉。法を定めた側が身内には甘いんじゃ示しがつかないと、当初はその通りになるところを、医者からの事情説明と賊退治の功に鑑みて、半分の期間の謹慎とあいなった。
「喪失を痛みとしていつまでも抱えて歩いてゆけるのも、またひとつの強さの在り方なのかもしれない」
夜風にあたりながらアルスラーンが言った。
露台には彼の股肱、のうちの男性陣、が揃っている。ギーヴは輪から少し離れて、瀟洒な薄布で隔てられた室内に腰を下ろして呑んでいた。
「辛い出来事の数々をそんなこともあった、と記憶はしているけれど、思い出すまでは忘れているのだ」
何の話しだ、とは皆言わない。主が誰を思い浮かべているのか、おそらく予想は一致していることだろう。
私は薄情だな、と目を伏せたらしい主人の慰めは黒衣の騎士に任せておくとして。
おのれの上を通り過ぎていった人々の顔を思い出せないことを、ギーヴは薄情だとは思わない。それが人間に備わった機能だからだ。
世界の道理は「不可逆」である。前にしか進めないようにできているのを、無理矢理振り向いて逆行しようとするから歪みが出る。
しかしそれこそが人間という生き物の可愛げにも思える。生物としての「生きよう」「永らえよう」という本能に、感情が勝る。自身が生きることよりも他人への感情を優先できるというのは、生物としての矛盾、ひいては世界をつくりたもうた神々の手を離れ歩んでいるようで愉快だとも思うのだ。
「陛下にとってはダリューンを喪うようなものでしょうか」
「ナルサス、不敬が過ぎるぞ」
たしなめる声にはしかし僅かに浮き立つ音が紛れている。
「いいよ、ダリューン。おぬしを兄のように思っているのはほんとうのことだし。しかし、そうか……冗談でも想像したくないな」
王の硬く冷たさを帯びた声に最年少が応じた。
「私の場合でしたらナルサス様、ということになりますか」
沈黙がしばし四辺を包む。仄白い光に照らされた露台はどこか神仙の様を呈している。
二度目にイスファーンが幻覚を見て倒れたとき、ギーヴは強制的な弛みかと推測したが、強ち間違ってはいなかったのだろう。医師が言うには、本当に恐れていることを人間は口に出せないのだそうだ。
シャプールの死に間に合わなかったこと。
シャプールの死を受け入れること。
未だ過去に縛られている男はだれもそうあれと呪っていないのに、勝手に雁字搦めになっている。
それに比して自身はあまりに過去から隔絶している。かれと自分とはおよそ対極にある。
そのことに対して、なんらの感情も持ち合わせていないはずだったのだが。
顔には出さず、ギーヴは思案する。
人生における出来事とそれに伴う情動によって生涯が彩られるというのなら、すべて自身にとって快美なるもので染め上げたい。命の終わりに完成するのだろう織りあげた布が、おのれの満足のいくものであるためなら、正しさという価値観を無視できる。そんなおのれがほんのすこし、さみしく思えた。いまさら生き方を変えようとも思わないし、変えられるとも思ってはいない。しかし――誰かの色に染まった糸があってもいいのかもしれないと、そんなことをちらりと考えた。
自分とは真逆の位置にいる男が最期に織り上げる布に、興味が湧いていた。同時に、反する感情もまた湧き起こる。
つまり、ここまで思考に侵入され、感情を揺さぶられることに対する苛立ちだ。他人の、しかも男の人生なんて追ってどうなるものでもないというのに。
おれが染めるのは良くて、染められるのは嫌だってか。我ながら傲慢な、とひとりうっそり笑った。
ギーヴは薄布をくぐって露台へ出た。
銀灰に輝く遥かな雲居の間から、皓月の清浄な光が露台に差している。
掌中で揺れ動く水面に映るのはなにやら名状しがたい顔つきの男で、ギーヴはつい杯を抛った。
「おや。嫉妬かな?」
さすがは我らが国王。この程度では小揺るぎもしない。端然とした佇まいそのままに不思議そうに問いかけてくる。
「まさか。そんな暇もないほどおれを愛してくださる女性も、重く用いてくださる主人もいるのに」
たしかに、とアルスラーンは笑った。近ごろのギーヴはアルスラーンに(というよりも、アルスラーンに対する忠誠を利用したナルサスに)よく働かされている。ナルサスに言わせてみれば、使い勝手が良すぎるのだそうだ。なんだかな、と思いつつも叛く気持ちにならないのだから妙なことだな、と自身を俯瞰して思う。
そんなかれを思う様行使する軍師が皮肉げに笑う。
「その代わり、たったひとりとか最後のひとりにはなれない類いの人間だろう、おぬしは」
「言ってくれるじゃないか。同じ芸術家として、おれの生き方を理解してくれると思っていたんだがね」
芸術家にも色々いる、と、ナルサスは肩をすくめた。
賢人とはやはり怖い。かれの言うことは過たず正鵠を射ている。
唯一なんてものを受け取ったら、重すぎて飛び立てないと考えているのは事実だった。
ギーヴはひとりでならどこまでも生き延びる自信がある。故に誰よりも後に逝くだろうという、確信じみた予感までしていたし、誰かの最後の人にはならないのだろうと思っている。だがそれは以前までの話であって、どういう運命の悪戯か、今のギーヴには主人がいる。アルスラーンに臣従した動機が不真面目なものであったとしても、今のおのれはかなり主人を気に入っていて鞍替えも独立も考えられそうにない。以前の自分が見たらどう思うやら知れないが、とにかく今は「ひとり」ではないのだ。
生き方を、変えられてしまった。自分よりも年若く、輝かしいものの手によって。そのこと自体を不快に思うことは全くないが、おかげで以前なら直面しようもなかった事態に遭遇する羽目になっている。
有り体にいえば、責任が伴うのだ。責任とは枷の類義語であるような気が、ギーヴはする。一つ行動するたびに一つ枷が嵌まる。無論、そんなものを負担に思うギーヴではないが、時折、おのれを無視できぬほどに強く地面に引き戻し、顧みさせようとするものがあるのだった。
ふぁ、と控えめなあくびを主人がした。素早く、かつ滑らかに動いたのはダリューンで、気づけばいつの間にかアルスラーンは肩から上着を羽織っている。エラムは手早く卓上を攫っており、四辺にはいかにもお開きの空気が漂った。
頃合いと見たギーヴは空になった手を胸元にあて、芝居がかった礼をひとつ。
「今宵は少し話し過ぎたようです」
「謎がギーヴの魅力だものな」
「ああ、然にあらず」
大仰に嘆いてアルスラーンの前に膝を着く。
「それはこのギーヴの魅力の一つではございますが、その申しようは些か悲しゅうございますな」
ギーヴはわざとらしく眉尻を下げ、悲しげな表情を作ってみせる。そして一転、莞爾として、どこかで言ったのに似た台詞を吐いた。
「楽器もできますし、詩作に舞もします。弓も剣も槍も、たいていの人間よりはうまくやりますよ、我らが国王」
最後に周りを見渡して付け足す。
「ま、この面子ではそれを誇るのも虚しくはありますがね」
アルスラーンはその端正な顔を少し傾けて「おぬしが勝てるとしたら女性の数くらいかな」と周囲が反応に困る類いの冗談を言い、ギーヴは思わず忍び笑いを溢した。
風韻と共に青葉が舞い上がる。ナルサスが卓上に滑り込んできた葉を一枚手に取り、くるくると手遊びする。立ち上がったギーヴは今度こそ暇を告げて姿を消した。そのほかも銘々自室に戻って寝支度をするのだろう。卓上の葉が押し流されて床に落ちる。
あとに一人残ったナルサスはふと好奇心に駆られ、露台の豪奢な手すりから身を乗り出してわだかまる暗澹に目を凝らしてみた。
ギーヴが水盃とばかりに投じた杯は、濃藍の夜の底に溶けこんで見えなくなっていた。
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