王都から北上すること数ファルサング。そこには手頃な広さの林があって、イスファーンは時間と身体が空くと狼たちを連れてよくそこへ向かう。
青い若草の匂いを運ぶ早春の風は清爽で、イスファーンは馬上で大きく深呼吸した。道傍にはラーレの花が群れ咲いて目にも鮮やかだ。
やや速歩で進む人馬に少し遅れて仔狼たちが続く。市街地にいる間は思うさま駆けることができなかったかれらは、今は土を蹴立てて楽しそうに走っている。既に何度か林へ行っているが、そこへ行くと好き放題走れるということを覚えており、見覚えのある道にきてからというもの、二匹の機嫌は上がりっぱなしである。
「好きに遊んでこい」
その言葉を待っていたかのように弾かれたように走りだす二匹。あまり遠くまで行くな、と声をかけたが聞こえているかどうか。
林の中は適度に日が遮られ、過ごしやすい空間になっていた。柔らかく湿った土の匂いと青い若葉の匂いが入り混じっている。近くを流れる川の上を渡るのか、風はひんやりとして、移動で火照った肌に気持ち良い。
のんびりと馬から鞍を下ろしていると葦毛の耳がはたはたと揺れる。水の流れる音を聞きつけたようだ。軽く馬の尻を叩くと速歩で川に向かって行った。あの馬もここへは何度か来ているため怯えるようなことはない。賢いやつだから勝手にどこかへ行くこともないだろう。
イスファーンは傍らの切り株に腰を下ろした。額に張り付いた一条の髪を爽風が引き剥がす。
持ってきた革袋から枇杷を取り出し、皮を剥いて口に運んだ。柔らかい果肉に歯を立てると、さして抵抗なくじゅぶりと沈みこむ。間をおかず芳醇な香りと甘みが口内に満ちた。
この時期は一年のうちで最も果物の出回る時期であり、市場は鮮やかな色彩で染め上げられる。中でも枇杷やさくらんぼは手頃な値段で買えるため、水分補給やおやつ代わりに食べる者も多い。今日買ってきたものも一山いくらで籠ごと売られ、子どもの小遣いでも買える程度の値段だった。
数回の咀嚼でつるりと咽喉を滑り落ちていった枇杷は、なるほど旬なだけあって美味い。が、
「ぬるいな」
ぽつりと呟いて口端を拭ったイスファーンは地面に置いた鞍に手を伸ばした。そこにはいくつかの荷が括り付けてあり、その中から柔らかい樹皮で編んだ籠を選んで取り外す。枇杷を買ったときについてきた籠だ。そこに残りの枇杷を放り込み、川に向かった。
水音を頼りに進んでいくと人間のイスファーンの鼻にも水の匂いが届き、やがて視界が開けた。馬は浅瀬に下り、水を跳ね上げて遊んでいる。軍馬ではあれどあれも若い駒だ。無邪気な様子が微笑ましく、イスファーンは気づかず頬を緩ませながら河原に足を踏み入れる。ごろごろと石を靴裏で転がして目的に敵うものを探した。やがて拳大の石を見つけると軍靴を脱いで素足になり、裾もたくし上げてから石を拾い上げる。日光に熱された石はほどよくあたたかい。
脛まで浸かるほどの深さの浅瀬を選んで足を差し入れた。鳥肌が立つほど、常に流れている川の水というものは冷たい。ちょうどいいな。イスファーンはまたしても笑みを浮かべた。
川底に石をぐらつかないように置き、そこに籠の持ち手を引っかけて川の水に浸けておく。しばらくすれば枇杷がほどよく冷えていることだろう。満足気にひとつ頷いたイスファーンは靴を回収し、それまで少し休むか、と川から上がって木の根元に座りこみ目を閉じた。
「痛っ」
衝撃に覚醒する。
小枝が頭にあたったらしい。頭をさすりながら立ち上がり、無意識に出どころを見上げると、焦点が合わないながらも「それ」と目が合った。やがてはっきりと像を結んだ目にそれが映る。
落下に翻る布、舞い上がる赤紫色の髪、凶暴に光る双眸。すべてが豪奢な肉食獣じみていた。
軽い音を立てて柔らかく着地した麗々しいいきものは、隙のない優雅な足取りで距離を詰める。認めたくはないが確かに見惚れていたイスファーンは、彼が目睫の間に迫ることをゆるしてしまっていた。無意識に一歩下がろうとした足がごつりと幹に当たる。
「話があるんだが」
そう言いながら、正面からするり、とイスファーンの首の裏に手をまわす。躱すには距離が近すぎた。
男の口辺にはうっすらとした笑みが漂い、つややかな雰囲気を漂わせている。その表情を向ける相手がイスファーンでなければ、惑わすというのが最も似つかわしい媚態だった。
「なにを企んでいる」
「べつに? ただ助けを求めているだけさ」
ギーヴがイスファーンに助けを求める、という異例の事態に、イスファーンは思わず瞠目する。
彼が助けなど不要の手練れであることはパルス軍中の誰もがよく知るところである。それは本人も自覚しているだろうから、よほどの事が無ければ救援なんぞ求めはしないだろう。
飄々としているが、その「よほど」が、発生したのか。
イスファーンが押し黙ったのと対照的に、よく回る口がいとも軽く詳細らしきものを吐き出した。
「厄介な男に尾け回されてるんだ。まったく、男に追われて嬉しいやつがあるものか」
「……女絡みか?」
大きなため息混じりのイスファーンの問いに、ギーヴはただ肩をすくめるのみ。
「無言は肯定ととるぞ。というか、いつまで引っ付いてるつもりだ、離れろ」
いつまでもこの状態でいるわけにはいかない。なにせギーヴの腕の中にいるようで落ち着かないし、身動きもとりにくい。
二の腕あたりを掴んで引き剥がそうとすると、抵抗するように回された手が項あたりで動くのを感じ、イスファーンはきつく眉を寄せた。
「おい!」
「もうあれはやらんのか?」
再び文句を言いかけたところに、気勢を削ぐような調子で問いかけられる。
「あれ?」
「新年の儀に、ジムサ卿と揃って粧してたろう」
言いながらギーヴは顔をイスファーンの右耳に寄せた。すでにかなり近かった距離は今やほとんどなくなっている。
「なかなか良かったぞ。たまにはあれで城下に出たらどうだ、色男」
顔は見えないが、微かに笑った気配があった。あからさまな揶揄の声音にはもう慣れたものだし、そもそもパルスの色男筆頭株に言われても嬉しくなどない。
「あれは典礼だったからであって、それを普段の格好にして出歩いてはそぐわんだろう」
ふぅん。ギーヴは興味なさげに呟くと、イスファーンの髪をとって弄り始めた。「話題になると思うがね」
他人にあまり触らせる部分ではないからか、妙にこそばゆい。そのうえ耳元で喋られると、意識がそこに集中してしまう。
肩を竦めそうになるのをなんとか堪え、それより、と脇道に逸れた話題を戻す。
「とにかく、自分で播いた種なら自分でなんとかしろ」
「それはあれか? 子種的な――」
ごす、と林に鈍い音が響いて、数羽の鳥が飛び立った。
「喩えの話だ!」
「乱暴な。童貞でもあるまいに」
すい、と体勢を戻し、片頬を持ち上げて笑う様子があまりにさまになっていたので、イスファーンは文句を言う機会をまたしても逸した。
「お、良いものがあるな」
さも今気づいたという風だが、おそらく前から知っていてこのような言い方をしているのだろう。ギーヴの言行のほとんどを信用していないイスファーンはそう思う。彼に関して信用しているのはアルスラーン個人への忠誠であり、信頼できるのは弓の腕くらいなものだった。
そんな射手の目が捉えているのは川で冷やされている枇杷である。
食べるか、と訊ねるより前にギーヴは歩を進めていた。慌ててその後に続くイスファーン。
「おぬしは遠慮という言葉を知らんのか」
「見栄を張ったせいで指を咥えて女を見送るやつ、という意味だろう」
「そんなわけなかろう。謙虚さをどうしたと問うておる」
「あいにく欲求に素直でね」
言いつつ、掬いあげた籠を揺らして水を落とす。
「よく冷えて美味そうだ」
早速ひとつ手に取り食べようとするので、これはいかんと釘を刺す。
「いいか、おれが買ったものをおぬしに分けてやるのだからな」
「自然物がだれかのものであったことなど、ましてやイスファーン、おぬしのものであったこともない。強いて言うなら天上におわすパルスの神々のものであろう」
「屁理屈を」
ギーヴはめんどうだ、という顔を隠しもせず「わかったよ」とため息をついて、腰掛けるのにちょうど良さげな倒木までイスファーンを導いた。
「おぬしも食べたいのだな。分けてやるから落ち着け」
「逆!だ!」
「はいはい」
おざなりな返事に顔を顰めつつ差し出された枇杷を手に取った。僅かに毛羽立った表面をひとつ撫でて逆さまに持つ。冷えた水菓子をすぐさま食べ終えてしまうのがなんとなく勿体なく感じ、ゆっくりと皮を剥く。産毛の生えた皮の下から現れるのは、つるりと艶やかな肉だ。
隣を見れば既にギーヴが枇杷に齧り付いている。手の早いやつだ、となんとはなしに思う。
唇の端から溢れた果汁が、細い顎を伝って身を投げ出す――その寸前、手の甲がやや乱暴とも言える仕種で雫を攫っていった。同時に朱く濡れた舌が同じく朱い唇の上をさっとなぞる。
肉を味わうため、優しく衣を剥いで、すばやく喰らいつく。その行為は殊ギーヴの手にかかるとどこか淫靡さを纏う気がする。
「扇情的、というやつかな」
「っンン」
何に慌てたのかギーヴが咳こみ、手の内の枇杷を取り落とした。淡い橙色が寛げた襟から滑り落ちて姿を消す。
「気をつけろ」
「おぬしが……いや……」
珍しく歯切れの悪いギーヴを注視していると、彼は腰帯を解いて服の中に侵入した果物を追い出した。飛び出して地面に落ちた枇杷は、転がって土やら枯れ草やらを身に纏った。
ギーヴに視線を戻すと口をへの字にしている。
「べたついて気持ち悪いな」
「ちょうどそこに川がある」
「着替えも無いのに水浴びか」
「嫌ならべたついたままでいろ」
「それはパルスの色男代表として無理な話だ」
「なんの代表でもいいが、行くならさっさと行ってこい。はやくしないと日が暮れる」
「この気温ならまあ問題ないか」
立ち上がったギーヴの背中を視線が追いかける。
河原の手前で潔く上衣を脱いで枝に引っかけた彼は、川の水で濡らした生成色の布で体を拭う。
森林ではあまり見ない「白さ」に目を惹かれる。生来のものなのか、外に出てもあまり日焼けをしない白い肌膚。普段衣服の奥に隠された部分は青い血管が滲むように透けて見えるほどだった。かといって、奥向きの仕事をしているような印象を受けないのはその体躯のせいだろう。一見細身に見えるが、しっかりと均整のとれた武人の体格をしている。
優雅さと獰猛さ。
その相反する二つを併せ持つ身体に加えてあの顔、あの声。本人には決しては言わないが、世の女性たちが彼に騙されてしまうのもわからないでもない。詐欺師はまさに彼の天職なのだろう。
しかし――そう、またしても逆接だ。彼はいまだ多くの矛盾を孕んだ謎の人物でもある――その体躯が持つのは実用の美であって見せかけの美しさでは決してない。
果汁を拭きとるついでとばかりに、ギーヴは濡らした手拭いで汗を拭う。肩甲骨の動きやその隆起に、肩まわりの柔らかさを見てとってイスファーンは一人で頷く。弓を扱う人間の身体だ。あの隆起を撫であげると案外敏感に反応する――いま、おれはなにを考えていた?
知らぬうち、イスファーンの傍には枇杷の皮と種が山をなしていた。
俄に風が吹き始めてきた。
そろそろ帰るかと荷をまとめ、二匹を呼び戻す。おぬしも同道するかと振り返ると、ギーヴはなにかを思いついたように口端を吊り上げていた。どうせろくなことではなかろう。
「おお、春とはいえつい先日まで冬だったからなぁ、寒い寒い」
「わざとらしい。って、おい」
「こんな日は人肌恋しいものだ」
突然きつく抱き寄せられる。というよりしがみつかれると言ったほうが適切か。さらにギーヴは持ち上げた自身の足を、器用にイスファーンの腰骨に引っかけるようにして腰に回す。ちょうど木の幹にしがみついた動物のような姿勢だ。一体何がしたいのかわからない。体温を求めるとはこういうことなのか?
「話を聞け、そしてどけ」
とは言っても、イスファーンも半ば諦めている。ゆえに言葉と同時に行動に移していた。
「離れろ……!」
引き剥がすようにギーヴの服を引っ張るものの、男の腕が肩の上にあるせいでうまく力が入らない。しかも何の嫌がらせか、男が前後に左右にと自由に体重を移動させて揺れるせいで足元がおぼつかない。こちとらおぬしの体重を支えているのだが。
ふらふらと縺れあって奇妙な動きをしている主人とその同僚を見て、遊んでもらえるのかと勘違いした仔狼たちが走り寄る。彼らがじゃれて足に絡みついてきたことでさらに身動きが取りにくくなる。
「あ、ちょっとおい、危ないから、踏まれないよう」
離れていろ、と言おうとしたところで、下草に足を取られたイスファーンが背中から転んだ。
「うっ」
イスファーンとて武人であるから転んで頭を打つなどという無様は今更しないが、今回はギーヴの体重も乗っている。そして再三言っているように彼もまた武人なのだ。
「おいおい、気をつけてくれよ。この顔に傷がついたら泣く女性が、いったい何人いることか」
「うるさい。遠慮無く下敷きにしやがって」
「見慣れた光景だろ?」
「そんなわけあるか」
とは言ったものの、既視感がまったく無いわけでもない。一体どこで見た光景なのだろうか。体を起こしたギーヴはイスファーンの腹に尻を落ち着けて跨っている。
――なるほど、これは。
「ほら、猟師殿。鳥が懐に入ってきたんだから助けてくれないと」
「……そんなにふてぶてしく救援を強請る奴があるか」
言いつつもまるで先程の思考を悟られたようでイスファーンは内心落ち着かない。
「ちゃんと恩返しはするさ」
閨でね、と付け足してギーヴは腰を揺する。
「まあ、羽根を毟られて串刺しにされるのはおぬしの方だが」
「それは報恩とは言わん!」
むしろ猟師に裏切られておるではないか、と声に出してはそう言うものの。内心、最前の光景を思い出しては、この男に食べられるのも悪くはないとも思うのだ。
【窮鳥懐に入れば猟師も殺さず】
追いつめられた鳥が懐の中に入っては、いくら猟師でも殺すことはできない。人が困窮して救いを求めて来れば、助けるのが人情であるということ。
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