けほ、と乾いた咳の音がしんと冷えた室内に響く。続いて堪えようとしたのか、体の内側で抑え込んでくぐもった咳が、結局堪えきれずに口の戸を破って外へ溢れだす。聞いているだけで辛く苦しくなるような音だった。
「イスファーン」
「ん゙゙」
「声は出さなくていい。一口でいいから飲め」
何度もひどい咳をしているせいで、弟の声は嗄れてしまっていた。普段のはつらつとした声とはまるで違うひび割れた音に、体調が悪くないはずのシャプールまでも胸が痛くなる。
シャプールはイスファーンの背に手を添えて、白湯を入れた器を差し出した。しかしいやいやをするように、首を振られる。腫れて傷ついた喉はなにかを嚥下するのも辛いのだろう。わかってはいるが、喉が乾いたままでいいわけがないし、水分を摂らねば治るものも治らない。蜂蜜かなにかあればよいのだが、あいにくと、ここは王都でもなければ実家でもなかった。
シャプールとイスファーンは、泊まりがけで少し離れた土地まで出掛けていた。朝から普段よりもどこかぼんやりしていると思っていたイスファーンが発熱していることに気付いたのは、帰路についてしばらくしてからのことだった。
慌てて見知らぬ村に寄り、部屋を借りたはよいものの、貧しい土地柄なのか、医者もいなければ薬もない。ただ体を冷やさず安静にするほかなかった。
匙に一杯だけ掬った白湯を唇の隙間から流し込む。飲み込むほどの量もない。ただ口内を湿らせる程度の白湯を与え、それ以上は嫌がるので諦めた。布団を引き上げてイスファーンの顎まですっぽり覆うと、小さな体はようやく力を抜いて寝台に体を沈めた。
寝台のすぐそばの窓から、西日が差し込んでいる。ここに部屋を借りたのは昼前だったから、いつの間にかこんなにも時間を過ごしていたのかと僅かに目を瞠っていると、袖口をくいと引かれた。
「どうした。喉がつらいか?」
だいじょうぶ、と声よりも吐く息の方が多いささやき声が空気を揺らす。おひるごはん、と彼は言った。
「腹が減ったか? 食べられるならもらってこよう」
無意識のうちに合わせて声をひそめながら応えると、小さく頭を振られる。
「あにうえ、食べてないから、行ってきて。おれはここで寝てるから」
「昼飯ぐらい、なんてことないさ。気にするな」
戦に出れば一日中食べないなんてこともざらにある。だから問題ない、そう続けるはずだったのだが。
一日中食べなくたって問題はないが、その代わりに、ありつけるときにはきっちり頂かねばなりません、と主張するように、ぎゅう、と本心を裏切って腹が鳴いた。イスファーンの容体が落ち着いたのを見計らったかのように、途端に空腹感を覚えはじめる。
ふふ、とまた息だけでイスファーンが笑う。格好がつかないな、と思いつつ、シャプールは腰を持ち上げた。
「まあ、腹が減ってはなんとやらと言うしな。お前も食べられるような……粥か何かを見繕ってくる」
無言のままイスファーンが頷く。
「すぐ戻ってくるが、起きていなくていい。寝れそうなら寝ていなさい」
またこっくりと頷いたイスファーンの額をさらりと撫でて、シャプールは上着を羽織った。
けほ、と咳き込む音でシャプールはおろしていた瞼を跳ね上げた。痰の絡んだ水っぽい咳が続き、布団の下でイスファーンのちいさな体が腹を守るように丸くなる。少し待てば落ち着くかと思ったが、咳は止まない。合間にひっひっと隙間風のような音がする。
「イスファーン!」
慌てて布団を剥いでイスファーンを抱き起こす。顔を覗き込むと、熱で腫れぼったくなった目から涙を溢して喉を触っている。痰をうまく吐き出せないまま咳が続くせいで息が吸えなくなっていた。このままでは窒息する。細い蝋燭に灯した火が頼りなげに揺れ、シャプールの不安を煽った。
「すこし痛くするぞ」
ほとんど手探りで、イスファーンを己の体に抱き付かせ前屈みにさせる。手を振り上げて、イスファーンの背中を思い切り叩いた。シャプールの広げた手で半分以上覆えてしまうような、まだ小さい背中が、引き攣った呼吸に合わせてガクガクと震えている。
「イスファーン、イスファーン、大丈夫だからな、出せるぞ、イスファーン」
どん、どん、と鈍い音の合間に声をかけていると、急にイスファーンの手が何かを探すように空中を彷徨った。
「どうした!?」
何を求めているのかわからず、とりあえず握ってみたが、違うようですぐさま手放される。一瞬だけ触れた指先の冷たさに心の臓がぞっと冷える。
「何を探している?」
「で、る、たん、が」
「我慢するな、そのまま出せ」
返答を待たずに背中を二度三度叩いてやると、ごほっと今までとは違う咳の音がして、それからすぐに眼下の背中が激しく上下し始めた。荒い呼吸音が聞こえてきてシャプールの肩からも力が抜けた。
「はぁ、はぁ、し、しぬかと思った……」
抱き起こしたイスファーンが目元を擦りながらそう言うので、頬の涙を拭ってやりながら、「俺も驚いた」と言うと、腕を伸ばして甘えるように抱きついてくる。寝台に腰を下ろして背中を撫でさすっていると、熱でほてった肌が首のあたりに擦り付けられた。凍えて縮こまっていた心臓に温かい血が流れ込む。抱き返して顔を頭頂部に埋める。わずかに汗のにおいがした。生きている証だ、と鼻の奥が熱くなる感覚を覚えながら、それで、と声をかけた。
「さっきは何を探していた?」
「さっき?」
「背中を叩いているとき、手を伸ばしていたろう」
「あ、あー」
「どうした」
「その、ごめん兄上、服が……」
イスファーンが抱きついていた体を離す。視線を追って見下ろすと腹のあたりがべったりと濡れている。
「塵紙に吐きたかったんだけど……痰吐いちゃった、ごめん服汚して」
「なんだ、気にするな。それより俺は、手を放されたから嫌がられたのかと思ったんだぞ」
「あは、そんなわけないのに」
暗がりの中でも赤い頬が健気に持ち上がった。
「水飲むか?」
「うん」
昼間嫌がっていたのが嘘のように素直にこくこくと飲み干す姿を見て、ほっと息をつく。
「山は越えたかな」
「なに?」
「いや、なんでもない。さあ寝よう。真夜中だ」
「はあい」
イスファーンを寝台に横たえさせ、布団を被せる。今夜はもう大丈夫だろうと、卓の上の蝋燭を吹き消そうとした。あのね、と小さい声がした。
「ん?」
「その……」
振り向いてイスファーンの顔を覗き込む。泣いたせいで濡れて束になったまつげが重たげに何度か瞬いた。それからすい、と視線をまぶたで隠す。
「やっぱりいい」
何か言おうとして躊躇したのは丸わかりだった。こんなときに遠慮なんてしないでほしいのに、一度覚えてしまった遠慮というものは、イスファーンのなかに強く根を張ってなかなか拭い去ることができない。昼間だってほんとうは、飯のことなどどうだってよくて、片時も傍らから離れるつもりはなかった。目を離した隙に「何か」あったら。それはかつて冬山への放逐という形で起こっている以上、絶対に無いとは言いきれないシャプールにとって恐ろしい悪夢だった。
親や兄弟というものは、いずれ互いから手を放す時期がやってくる。自分自身も、いまは親の元からある程度独立して動いているので、そういう時期があるのは、理解しているつもりだ。しかし。シャプールの腹が頭を裏切って音を鳴らしたように、シャプールの心もまた、理解を振り切って「しかし」と言うのだ。
この子から、いつか手を放される日がやってくるというのか?
その時、自分は素直に手を下ろすことができるだろうか?
「水か? なにか食べるものを持ってこようか?」
寝台の端に腰をおろして、イスファーンの汗で少し湿った前髪をそっと掻き分ける。
「ううん……」
枕に押し付けられた頬が柔らかく形を変えるのをぼんやりと見つめながら、イスファーンの次の言葉を待った。
「あのね……一緒に寝てほしいなって」
「そんなことに遠慮する必要などなかろう」
消え入りそうな語尾を捕まえて、夜に相応しくない必要以上に力の入った声を発してしまったのは、せめて、と思ったからだ。せめて、まだ己の弟でいてくれるうちは。せめて、兄らしいことをさせてくれる間だけは。能う限りを尽くさせてほしい。
「ほら、もうちょっと壁際に寄れ。俺が落ちる」
「兄上と一緒に寝るの、久しぶりだ」
「ああ、こんなにいい湯たんぽは久しぶりだ」
万一にも体が冷えないよう、小さな体を抱き込んで布団を被る。据わりのいい場所を探してごそごそと動いていた頭が、やがて肩口に落ち着いた。首から力が抜けて温みと共に愛しい重さが伝わってくる。
「なんかおはなしして」
「……難しいことを言う」
元来、面白みのある方ではないのだ。いつか寝物語に語ってやった話も、とうに忘れてしまっている。すぐに引っ張り出せるような昔話が蓄えてあるわけもなく、無意味に「うむ……」と唸っていると、イスファーンがふふ、と小さく笑った。
「兄上、いっつもそう言う」
「そうだったか?」
「そうだよ。それで俺が作った話をして兄上に聞いてもらうの。そうしたら知らないうちに朝になってるんだよ。忘れちゃったの?」
「いや……確かにそうだったな。それじゃあイスファーン、今日はどんな話をしてくれるんだ?」
「えっと、きょうはねえ、やさしいひとの話だよ」
話しているうちに、イスファーンの瞬きがゆっくりと重たくなり、やがて健やかな寝息が聞こえてくる。完全に寝入ったことを確認して、シャプールはイスファーンの頭を撫でると、彼もまた夜の淵に身を横たえた。
朝の気配が、いつもよりもすんなりと体に沁みて、イスファーンはおろしていたまぶたをぱちりと開けた。いつもは眠気でまたすぐにおろしてしまうそれを、瞬きで振り払う。
頭も体もすっきりと覚醒している。それなのに身を起こさないのは、この体が、大きくて温かいものに包まれているからだ。視界はほとんどそれに覆われていて、目玉をぐりぐり動かしても部屋の様子はまったくわからない。
頭上から、すうすうと息をする小さな音が聞こえる。そうっと頭を動かして顎を持ち上げると、眠っている兄の顔が見えた。
普段険しい顔をしていることの多い兄だが、寝ている今は目元から力が抜けて、ただの端正な顔になっていた。どこかから入ってきた光が、後ろから兄の頭を照らしている。輪郭や産毛がきらきらと光って見えて、無性に幸せな気持ちになった。湧き上がる得体の知れない情動を、動けない代わりに頭をぐりぐり胸板に押し付けて発散させる。叫びたいような、そっとしまっておきたいような、だけどみんなに見せびらかしたいような、こんな心地は初めてだった。
頭を押し付けた胸板から、規則正しい鼓動が聞こえてくる。しばらくじっとそれを聞いていたイスファーンだったが、やがて、鼓動に誘われるように、また微睡みの中に落ちていった。
とんとん、と背中を軽く叩かれる。心地よい眠りから浮上しかけるも、離れがたくあたたかな泥濘にまた意識をとらわれる。沈みかけたところで、大きな手に肩を揺さぶられ、イスファーンは観念して目を開けた。
視界には、柔らかな笑顔を浮かべてこちらを覗き込む、兄の顔があった。
「おはよう、イスファーン」
またあの幸せな気持ちが胸の中から湧いてきてどうにも堪えきれず、とうとうイスファーンは破顔して目の前の首に抱きついた。
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