袖をゆるす

「今日の晩餐には客人が来る」
 要約すればそのようなことをご主人が言ったので、下働き(奴隷という身分は数年前正式に撤廃されたのだ)の少年たちは朝からいつも以上に働いていた。
 掃除、洗濯、調度品磨き。装飾品と香と提供する料理の相性は。普段の仕事に加えてこれらをこなしながら、どのような方がおいでになるのだろうと噂話に精を出していた。
 聞けばお客人と言っても二人だけで来るらしい。あまり仰々しくしてくれるな、とは先方からの注文のようで、であればと彼らの肩の力も幾分か抜けた。歓迎の意が伝わりさえすればよいのだ。
 だが、昼をすぎていくらもしないうちにそうものんびりしていられなくなった。空は厚い雲に覆われ、まだ日のある時間にもかかわらず辺りは暗く沈んでいる。少年はすん、と鼻を鳴らした。湿ったにおいがする。雨が来るのだ。
 果たしてすぐに雨粒が地面を叩き始め、瞬く間に車軸の如き激しさになった。それから間もなく陣太鼓のような轟きとともに閃光が雲の中を奔りぬけ、窓から外を眺めやる邸の人間の目を灼いた。どうにも順調にはゆきそうにない幕開けだった。

 日が暮れるころ──と言ってもとうに外は暗いのだが──ずぶ濡れになり、すべてを諦めた歩調で「お客人」の二人が現れた。
 栗色の髪をした方は精悍というのが相応しいだろう。ものすごく背が高いというわけではない。でも、頭が小さいから相対的に他の部分が大きく見える。つまり、手脚がすらりと長くて、立派な体格に見えた。
 きっと武人の方だろう。そういう人に特有の、内側から気力を張り詰めたような、指先まで意識の行き届いた身の運びをしていた。
 もう一人の方は不思議な雰囲気を纏っている。栗色の方と同い年ぐらいに見えるが、瞳に浮かぶ悪戯っぽい光は彼をもっと年若のやんちゃな青年に見せたし、力の抜けた首から肩の流れは落ち着いた貴人にも見えた。水濡れて暗くなっているが、髪は赤紫っぽいようだった。毛先から滴る水が首筋に落ちていくつも道を作っている。

 どうにもちぐはぐな二人だ、という印象は、宴席が始まっても拭えなかった。
「この雨でなければ、色々と見て回りたかった」
そうおっしゃったのは栗色の髪の御方だった。彼はよく食べ、よく飲んだ。
 少年たちはそれを見てほっと息をついた。ただ客人としか知らされていなかったが、この家に支える家令から、彼らはどうやら王都で役職をいただいているらしいと噂話が流れてきたばかりだったのだ。だから、ご満足いただけなかったらばどうなることだろうか、すでにこの雨で気分は良くないだろうに、と心配していたところでの彼の健啖っぷりは、胸をすっきりとさせた。
「ここ最近で一番の大雨ですから、災難でございました。まあこの田舎では風景ぐらいしか自慢と言えるものはございませんから、ゆっくりとお寛ぎください」
「ご謙遜を。ここの織物も葡萄酒も、ずいぶんと評判です」
 彼はそう言って飾らない笑顔を見せた。
 手が止まりがちだったのは赤紫の髪の御方だった。この方は栗色の方とは随分雰囲気が違って──つまり、「役人」らしくもなければ「武人」らしくもなかった。
「きっとあの方、音楽の素養がおありなのだ」
 隣に立った給仕係の少年が言う。視線の先には確かに小ぶりの竪琴があった。杯を持つ指先の繊細さ、ときに艶やかにも見える視線の流し方。なるほど、楽士なら頷ける。ならばしかし、二人はどういう関係なのだろうか。ひとつ解けたと思った疑問は新たな謎を連れてやってきた。
 楽士らしき彼が髪色によく似た葡萄酒を干す。そうして、よく動く瞳でぐるりと周囲を見渡した。
「あまり騒がしいのはお好きでないようですね」
 その言葉に、少年たちはわずかに肩を強張らせた。
 いつもよりも静かな宴となったのは、この天気で来るはずだった酒妓が来れなくなってしまったためだ。本来であればもちろん、歌舞音曲でもてなすはずだったのだが、客人にとってはそんなこと、言い訳にしかならない。ケチっていると思われたら嫌だな。ご主人は悪い主人ではないから、これを理由に理不尽なことを言われないといいな、と肩を竦めて祈った。
 ご主人が口を開こうとしたそのとき、武人らしき栗色の方が肘で彼を小突いた。
「むしろおれはこういう方がいい」
「おぬしはそうでも、おれは違う」
「わがままを言うな」
「いやわがままではなかろう」
 ご主人に口を挟む隙を与えないまま、二人の会話は進んでいく。今のところ、楽士らしき方も機嫌はそう悪くなく、二人の仲も悪くないらしい、ということがわかった。
 二人の会話はするすると進んでいく。
「おぬし、独剣舞は?」
 楽士らしき彼が訊ねると、武人らしき彼が怪訝そうな顔をする。
「ひととおり、最低限なら」
 拙いが、と付け足すのどちらがはやいか、楽士の彼が傍らの竪琴を取り上げた。
「よし、ではおれが楽を奏でてやろう」
「いまか!?」
 慌てたように器と匙をおろす。
「この雨のなか精一杯もてなしてくださった領主様へのせめてもの礼に、さ、どうぞ、イスファーン卿」
「勝手を言うなギーヴ、そんな、見せられるようなもなではとても……!」
 空いた空間へ促すように差し向ける楽士の手を押し留めながら、ご主人に向けてイスファーンと呼ばれた彼が言い募った。しかし、あまり固辞するのも酒の場をしらけさせると思ったのか、終いには折れて──依然として気乗りしない様子ではあったが──腰を上げた。

 立ち上がった男の服装は、見窄らしい、とまではいかないが、だいぶ質素に見える。少なくとも王様の手下とは思えない。地方の騎士階級の青年、と言った方がしっくりくるぐらいだった。
 本来であれば舞女が控えていただろう位置に向かうと、暗がりの中からこちらに向かって一礼した。
「万騎長シャプールの弟、イスファーンだ。一差し仕る」
「楽士、ギーヴ。しばしのお付き合いとご辛抱を」
 竪琴を抱え、ギーヴと名乗った男はその場でゆるりと弦を撫でた。柔らかな音が雨音に溶けこむ。
「拙い剣舞だが、ご寛恕ください」
 そう言うとイスファーンは、肩甲骨のあたりまである束ねた栗色の髪を、ひといきに解いた。
 近くの大きな壺から、一本の植物を抜き取る。白い花をつけた立葵だ。少年と同じぐらいの丈のそれを携えて、彼は広い空間に進み出た。

──瞬間、空気が変わった。

 ただ、ふ、とまぶたを伏せただけだ。たったそれだけの仕種で、彼は空間を支配してみせた。
 茎が、しなる。
 春の新芽のようにやわらかく、夏の枝のように芯を感じさせながら。秋の葉のように切ない哀愁を漂わせ、冬の梢のように孤高に。あらゆる表情が一瞬ずつ入れ替わり立ち現れながら消える。
 栗色の髪が、袖が、しなやかな肢体を追ってはためく。だれもが、その下にひそむ柔らかな肉を想像した。だれかが、ひっそりと細く息を吐き出した。その気持ちは痛いほどわかる。この舞をひとかけらも邪魔したくないのだ。
 ときに剣のように立葵を突き出す。かと思えば、厳しい楽の音に嬲られるように花と共にたおやかに体を揺らす。
 摺り足で移動するさまは楚々として乙女のようで、強く踏み込んで伸びあがる様子は強靭な戦士のようだった。
 水面に誘う柳の枝のように、彼が手を差し出した。それはちょうどご主人の正面で、まるでご主人の手を待っているように見えた。許しを与えるように、イスファーンの口角がわずかに綻ぶ。腿の上に置かれていたご主人の指先が、わずかに動いた。そのとき。
 ざん、と音を立ててギーヴが弦をかいた。楽が止んだ。茎の先についた花が一輪、音なく床に落ちた。
 途端に、イスファーンは時間が止まったように動きをとめた。それからゆっくりと姿勢をまっすぐただす。すでに舞の最中の、呼吸を支配されるような空気は掻き消えていた。
「やはり武人らしく粗野な舞だったな」
 続きはないと主張するように竪琴を傍へ置いてしまう。
「……だから最低限だと言っただろう。粗末なものをお目にかけました」
 イスファーンは髪を束ね直し、ご主人に向かって礼をした。ほんのわずか惚けたようになっていたご主人が、慌てて二人に拍手を送り、手ずから杯に酒を注いだ。
「いえ、そんなことは。最低限などと。さすが王都からいらしただけあって、お二人はお目がよく肥えていらっしゃるようです」
 ギーヴという楽士は、存外子供っぽいところもあるらしい。言い出したのは彼なのに、思いがけず艶を見せたイスファーンに驚いたのだろうか。それにしては途中までは彼も楽しんでいるようだったのが不思議である。
 それはともかくも再開した宴会は、無視できないものを無理に見ないようにしているような、妙な浮き足だった雰囲気がありはしたものの、一応恙なく終えてお開きとなった。

 翌日の少年たちの話題は、無論のこと昨日の客人についてであった。
 給仕係は「目的地まで楽士様を護衛しているんじゃないか」と推測を披露した。なるほど、と思ったが、厨房係は「それなら護衛が一人だけなのは変じゃないか」と反論した。侃侃諤諤言い合って、けれどもこれだと確信できるものは何もなかった。
「お前は? どう思う?」
 給仕係が、最後まで一度も口を開かずにいた少年に水を向けた。
「二人は……恋人、なんじゃないかな」
 水を打ったように静まりかえる。一瞬の後、周囲からえーと不満そうな声が挙がった。冒険を夢見る年頃には物足りない回答だったらしい。
 少年は客室の清掃係だった。

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