風穴 - 1/2

「このごろ、熱心じゃないか」
練兵場でそう声をかけられた。
——おれは、この声を、知っている。
反射的に詰まった息をゆっくりと吐き出して、男は振り向いた。

瞼の裏に張り付いたように、いつまでも忘れられない光景がある。
それは秋。城壁の外、万騎長シャプールさまが、叫んでいるのだ。

 

 

おれが、いえ、私が、先日イスファーンさまの隊に配属されたのは偶然ではありませぬ。私が志願したからでございます。
かつて私は王都で城をまもる役についておりました。城門の守護でございます。それゆえ、すべてを見ておりました。万騎長シャプールさまが、ルシタニア兵によって捕らえられ、抵抗もできぬまま痛めつけられたお姿を晒されたのを。あの誇り高き戦士が、懇願などなされるところを、私は初めて見たのです。最初で最後のお願いを、俺は叶えることが出来なかった……。
しかし、ご存知のようにシャプールさまの願いは、とある流浪の楽士の手によって叶えられました。私は恥じました。ええ、国を、民を、王妃を守ると息巻いておきながら、楽士に劣る腕しか持ち合わせていなかったのですから。
私はシャプールさまとわずかながら交流がありました。あまり言葉を交わしたことはありませんでしたが、ある時、珍しくお顔を緩めておいでだったので思わず声をおかけしたことがあったのです——

・・・

「なにか吉報でもございましたか」
傾いた陽が回廊に差し込み、床には影と光が交互に延びて縞模様をつくっている。
もうそんな時刻か、と思って顔を上げた先、二ガズほど向こうの円柱に凭れていたのはパルスの将の一人、シャプールだった。齢は二十ほどで、現在は千騎長だが、ゆくゆくは万騎長にと嘱望されている。武勇に優れるだけでなく、誰にでも公平に厳しく接するところが良いのだそうだ。だが、今日のシャプールは、常の近寄り難さがすっかり鳴りを潜めていた。だから思わず声をかけてしまった。「なにか吉報でも」と。
シャプールが顔を上げ、不思議そうな顔をしてこちらを見つめるのを見て、ようやく、やってしまった、と気づいた。突然見知らぬ兵士に、挨拶もなしに話しかけられればそうなるだろう。
「手紙を握っていらしたので」
言い訳がましくそう口にすると、弟からの手紙が届いたのだと微かに口角を持ち上げた。その時初めて、弟御がいることを知った。歳が離れていて、兄と弟というより父と子のような関係である、とも教えてくださった。今でもあの時のやわらかな声は忘れられない。
それまでの男が知っている「シャプール」という人物は「公人」という側面が強かった。国王に仕える軍人としてどうすべきか、ということを第一に考えている人であった。
これは誰に聞いても否定されないだろう。つまるところ、滅私の人だった。少なくともこの男のように、シャプールという人物を知らない人間にとっては。
それが、あの日。初めて男が些細な雑談を交わした日。生真面目そうにいつも引き結ばれていた唇が、わずかにほころんで、家族の話をするのを聞いた日。はじめて、「シャプール」という単なる記号が、たったひとりを示す名前として胸に焼きついたのだった。かれもまた、人の子であったのだ、と。

・・・

「ヤザン、異動願を出したんだって?」
声をかけられた男は手元から顔をあげ、午後の日差しの強さに目を細めながら肯いた。
「やあシハーブ、君は相変わらず耳が早い」
「ああ、そういうお世辞は要らないよ」
シハーブは軽く手を振りながらヤザンの隣まで来て、壁に背中を預けた。眩しい、と呟き少し日陰の方へずれる。そのまま胸の前で腕を組んだ。練兵場は雑多な喧騒に包まれており、二人の会話を気にする者など、ひとりとしていなかった。
パルス暦三〇二年。年を越してまだひと月も経っていない。寒さから逃れようと日向に立ってはみたものの、やはり動かねば寒さの方が勝つ。練兵場で体を動かすことは、毎日薪を燃やせるほど蓄えのない下級兵たちの、もっとも手頃な防寒だった。
「それで、どういうわけで工作部隊から異動するのか、この僕には聞かせてくれるんだろうね?」
シハーブの声には当然そうすべきだ、という刺々しい圧があった。ある種の傲慢さとも受け取れる態度だが、ヤザンはこの一回り近く年若い男の、自信に溢れた様子を好んでいた。高圧的な態度ゆえに周りから疎まれることも少なからずある男だが、ヤザンからしてみれば、不器用な子供でしかなかった。
ヤザンは右手に持ったいくつかの小石を掌の中で転がした。かれが戯れに作った「作品」どもである。
「兵器を作るのは、やりがいのある仕事ではあった。でも、命を奪うものを作るより、希望を届けるほうが楽しそうだと、思ってしまったんだよ」
「だが——」「これ、あげるね」
ヤザンはシハーブの声を遮って手を突き出した。反射的に出された手の上に、ころんと二つ、小石を転がす。
「実際に異動になるかどうか、まだわからないけどね。俺からの、日頃の感謝の気持ちというやつだ」
そろそろ休憩時間が終わるから。そう言い置いてヤザンは立ち上がった。そのまま振り返ることなく、日向へ、練兵場の中心へと歩いていく。日陰に残ったシハーブは、無表情のままそれを見送った。握りしめた小石がぶつかって、かちりと音を立てた。
手の中の小石には細かく彫りが刻まれている。それをシハーブは知っていた。ヤザンはもともと、彫刻を趣味としている男で、かれはその手先の器用さを買われて、工作部隊に入ったのだから。
つまみ上げて見てみれば、それは一つはヤザンの顔に、もう一つはシハーブの顔によく似ていた。シハーブの滅多に見せない笑みがそこには刻まれている。
「ふん……うらぎりもの」
シハーブは呟いた。どこか渇いて平坦な声だった。

数日後、ヤザンに正式に辞令が下った。パルス軍に所属している兵士は、ただ鍛錬に励んでいればいいというわけではない。だれしもがなにかの仕事に就いている。
城壁を壊すための投石器や城門を打ち壊す衝車といった、攻城兵器の修理、建設、改良。これはかつてのヤザンや、シハーブが所属している工作部隊の仕事である。他にも、戦場で救急手当をする医療班や、式典で演奏する鼓楽隊、そしてヤザンがこれから所属することになる、郵便部などがある。
ヤザンの異動のきっかけは、あの日のシャプールの表情だった。
「あの」シャプールでさえ緩やかにほどけるような顔をさせる「手紙」というものを皆に届ける仕事は、きっと素晴らしいものだろう。そう思ったのだ。
ヤザン自身は手紙を受け取ったことも、出したこともない。なぜならかれは天涯孤独であったので。ゆえに、「手紙」というものに、いささか過剰な期待を抱いていることは否めない。
それでも、それから始まった郵便部の仕事はヤザンにとって非常に満足のいくものだった。特に、度々シャプールに手紙を届ける役目ができたことはとりわけ喜ばしかった。頻度は高くないが、数ヶ月に一度見かける、拙かったパルス文字アレフバーの宛名が徐々に上達していくのに、笑んだりもした。手紙を届けるついで、一言二言、言葉を交わすようになり、いつしかシャプールは手紙の送り主である弟について、ヤザンに話をしてくれるようになっていた。
「最近、林檎スイーブがお気に入りらしい」
「もう手離しで馬に乗れるようになった……? 本当だろうか」
「『雪遊びをして風邪をひきました。』何年か前も同じことをしていたぞ」
そんな些細な近況を何度も聞いているうちに、おこがましいことだが、ヤザンはかれらの「遠い親戚のおじさん」のような気分になっていた。顔を合わせたことはないけれど、兄弟ふたりが、いつまでも仲良く健康であってほしい。直属ではないとはいえ上官のシャプールに対して、実際にそう言うのは流石に控えたが、それでもその気持ちに偽りはなかった。
ヤザンはその「弟」にいつか会えるのを楽しみにしていた。兄に似て生真面目で、まっすぐで、きっと良い将になることだろう。かれはそう信じて疑わない。
ヤザンがここまで郵便部の仕事と兄弟にのめりこんだのは、憧れだけでない理由がある。
異動願を出した日の練兵場以来、シハーブとろくに話せていないのだ。その淋しさを埋めるように、ヤザンは仕事に打ち込む。幸か不幸か、郵便部にはそれだけの仕事があった。各地から届いた手紙を部隊ごとに仕分け、届ける。逆に、手紙を出したい者から預かり、パルス軍御用達の手紙配達人ケシュラークに預ける。時には、手紙を出したいが文字が書けないと言う者のために右筆まがいのことも請け負ったし、文字の読めない兵士のために読みあげることもあった。そのようにして、心の一部を空っぽにしていることに見て見ぬふりをしながら過ごしていた。いつの間にか異動してから一年以上経っていた。

昼近くだというのに、やけに底冷えする。先日のいくさの痕跡を押し流すように、昨晩から強い雨が降り続いているからだろうか。王宮に背を向けて歩きながら、ヤザンは思った。
きっとカーヴェリー河は今ごろ、赤茶色に濁っているだろう。
過日、王弟アンドラゴラスは大将軍として国境の東南へと進軍した。そこにあるのは、パルス、シンドゥラ両国と境界を接するバダフシャーン公国である。——だった、というべきか。
身体がガタガタと震えているのは、地面から這い上がる冷気のせいだけではない。
ヤザンが工作部隊にいたのは、なにも手先の器用さのみによるのではなかった。そこにいれば、積極的に人を殺す必要がなかったのだ。工作部隊は兵器の建造や保守、あるいは罠の設置を優先する部隊である。ヤザンはそれを忘れていた。
郵便部に異動してはじめての戦場は、ヤザンに本質を見せつけた。戦場とは、ひとがひとを殺す場所のことだったのだ。
みずからの脈打つ音さえ鮮明に聞こえる。耳の内側が膨張しているような奇妙な閉塞感に包まれていた。その内側で、ヤザンは反芻を繰り返している。戦場での自分の行いを。
パルス歴三〇三年といえば、後のアンドラゴラス三世、当時は王弟であり大将軍であったアンドラゴラスが、軍を率いてバダフシャーン公国を制圧した年である。
常勝軍と名高いパルス軍は、押し潰すように小さな公国を飲み込み、あっという間に滅ぼしてしまった。
その征戦に、ヤザンは参加した。
腹に直接轟く戦太鼓と馬蹄の響き、大将軍の裂帛の気合い、周りの兵士の昂揚。それらにつられてヤザン自身も昂ぶっていた。深くものを考えることもなく、狭くなった視野の中で行く手を遮ろうとするものを切り捨てる。身体の中で何かが充溢するのを感じていた。
決して楽しかったのではない。もっと根源的な快感だった。剥き出しの命を手荒に触る行いに昂奮していた。
だが、いくさが終わり一晩もすれば昂奮などすっかり冷め、いつもの自分が戻ってくる。
思い返せば、息を荒げ、食欲さえ忘れ去って戦場を彷徨うさま子は、到底「人」とは呼べなかった。野生の動物と比べてもより劣った存在だった気さえする。そんな自分に嫌悪感しか抱けない。
雨もお構いなしに戦捷に沸く王都に、慚愧しているヤザンの居場所はなかった。どこか息のできる場所はないかと、兵舎を飛び出した。
城下をあてどもなく歩くうちに、ヤザンは一軒の店の前まで来ていた。戸には鮮やかな青い暖簾を立てかけてある。どうやら飲食店のようだが、今は開店はしていないらしい。左右の路にひとけは無く、浮かれた空気もここなら薄まって感じられた。
ヤザンは店先に置かれた木の長椅子に腰掛けた。既に濡れ鼠だったから、座面が濡れていることなどどうでも良かった。
束になった髪の先から次々に水が滴りおちて水たまりに波紋を広げるのを、ひたすらじっと眺める。誰とも会いたくなかったし、何もしたくなかったから、そんなことしかできなかった。
そのうち、じわじわと蝕むように、冷たく黒い靄が身体を這い上がりはじめる。
おれが手にかけたあの人には家族があったのかもしれない。天涯孤独のおれが死んでも誰も悲しまないが、あの人が死ねば悲しい人が何人もいるのかもしれない。
この靄が不安なのか、恐怖なのか、ヤザンには判断がつかない。自分の価値がまったく認識できない状態で、地に足がついていない感覚がある。兵士として役に立てない上に、国の勝利も祝えないなら、家族もいないおれは、なんのために生きていればいいのだろう。
——このまま、凍死でもしてしまえばいい。
そう思ったときだった。
「大丈夫か?」
声とともに、あたたかな手のひらが肩甲骨の間に当てられた。
ヤザンが重たい頭を持ち上げると、そこにいたのはシャプールだった。

雨の帷の内側で、二人は肩を並べて座っていた。絶え間ない水音が思考を煩雑に散らそうとする。
「だが……少なくともおれは、おぬしが死ねば悲しく思う」
叱声を覚悟で情けなく心情を吐露したが、わずかに迷うような声でそう返された。
世辞を言う人間でないことは、ヤザンも知っている。だがそれでも素直にかれの言葉を受け取ることができない。
何を言ったらいいのかもわからなかった。二人は束の間、黙って灰色に沈む景色を見続けた。
——ぱしゃん。
立てかけていたシャプールの傘が風に煽られ倒れる。
その音を合図にしたように、シャプールが姿勢をただした。迷いを振り切るようにかぶりを振って向き直る。
「聞け、ヤザン」
そう言って、俯くヤザンの手を取った。
「おぬしは刃だ。刃物が人を切ったとて、その刃物そのものには何も罪はない。持った手に、そして手の持ち主の意思にこそ、罪があるのだ」
それは、結局ヤザンの行動に罪があると言っているのと同じではないのか? その場で武器を振るったのは、内心がどうであれヤザンの意思によるものだ。
ヤザンが腑に落ちない顔をしているのを見てとり、シャプールは訥々と続ける。
「言ったろう、おぬしは刃だ。刃に意思はなく、ただ振われるだけ。その咎は刃を振るう先を選ぶ、おれにこそある」
「それは——」
詭弁であると、上官に正面から言う勇気はなかった。
「罪業は、おれにある。これまでも、これからも」
ゆっくりと、念を押すように、ヤザンの手を両手で握り込む。あたたかくかさついた指先が手の甲を撫でる感触に心臓が跳ねた。
雨音は依然続いているというのに、ヤザンの耳にはまるで入らない。シャプールの声だけが、一音も漏らすことなく届いていた。
「だからおぬしは何も考えず、全てを預ければよいのだ」
それはなんと甘美な言葉だろう。言われるがまま思考も言動も委ねてしまいたい。だって、そうすればヤザンの罪は綺麗さっぱり無かったことになるのだ。これから先の殺生も、なんの呵責なく行うことができる。つまり、兵士として国の役に立つことができるということだ。
器が広い、と評するべきなのだろうか。あまりに広すぎて、すべてを飲み込んでくれそうなほどだ、と思った。それこそ、神のように。
しかし、ヤザンの手を握るのは紛れもなく、体温のある人のものだ。どちらのシャプールが本当なのだろうか。兵士のすべてを背負うと、躊躇なく言い切ったその覚悟の重さを思わずにいられない。到底ただびとのたどり着く境地ではない。
天秤がぐらぐらと揺れる。
人として、兄としてのシャプール。
将星として、兵を手足のように己のものとして扱うシャプール。
自分は、一体どちらのシャプールであってほしいのだろうか。

・・・

「隣、いいか? 実は聞いてもらいたい話がある」
「シャプールさま。わたしとしては勿論、ですが……」
言い淀むヤザンに、シャプールは先を促すように左の眉をくっと上げる。
「わたくしめに、ですか?」
兵舎の食堂だった。昼時なので当然賑わっており、人目も多い。
贔屓をしているなどと思われるのは、よくないのでは。そう続けるとシャプールは肩をすくめた。
「おれに贔屓の一人や二人いたとして、何の問題がある」
はっきりとそう言い切られると、面と向かって問題だとは言いにくい。ヤザンが迷っているうちに、シャプールはさっさと腰を下ろしていた。
「おぬしは弟のことを知っているだろう。その弟についての話だ。だから前提を知っているおぬしの方が話しやすい」
そう言って語り始めたのは、言ってしまえば単なる子育ての苦労話だった。
「実は……最近考えることがあってな。今まで王家に忠誠を誓って得物を振るってきた。国王陛下のおんために、微力ではあれどお力になれれば。そしてそれが民草を守ることになるのならと、死力を尽くして戦ってきた」
だが、とひと息おいたシャプールは額に手を当てて嘆息した。
「たったひとりの命を守ることが、こんなにも難しいことだとは」
今まで驕っていたのかもしれない、というシャプールの言葉に、ヤザンは慌てて首を振る。
「幼い子どもを育ててみると、毎日が気苦労ばかりなのだ。走り回っては何かにぶつかるし、知らぬ間に虫や石や木の実を持ち込むし。離れている間も布団を剥いでいやしないか、堀に落ちてないか、転んで泣いてないか。気づけばそんなことで頭がいっぱいになっている」
気をつけないと、相槌を忘れそうになる。それぐらい、シャプールの顔、そして話の内容に釘づけになっていた。
苦労話をしているとは思えないほど、シャプールの顔から余計な強張りは解け、視線はここではないどこかをやわらかに見つめている。
まるきり親の心情だと思った。ヤザンは体験も経験もしたことは無いが、たぶんこれが。
「自分の食べる分を減らしてでも子供に腹一杯食べさせてやりたい」あるいは、「子供が嬉しそうに食べている、それだけで自分も幸せだと感じる」
そんなもの、無償の愛でしかないだろう。
自分は焦げたのや切れ端を集めたのを食べ、子には真ん中の、きれいでいっとう旨い部分を。なんの疑問も持たずに、当然のようにそうする。それを愛と呼ばないなら、この世に愛など存在しないのではないかとさえ思う。
ヤザンは形に似せた彫刻はよくするが、知らないものは彫れなかった。だから、想像上の両親の顔を彫って慰めることもなかったし、会ったことのない神々の像をつくることもなかった。
だが、今日からはできるだろう。慈愛を具現化することが。
もしもそれを表現せよといわれたなら、おれはあの時のシャプールさまの顔を思い出して彫るだろう。ヤザンは確信した。
「命を守り育てるというのは、こんなにも大変なことだったのだな」
天を仰ぎたかった。見知らぬ神に感謝したくなった。
ほんとうに、あるのだ、無償の愛というものが。
それがあると信じられるのは素晴らしいことだ。素直にそう思った。
そして、それを信じさせてくれた、シャプールという人物が、とてつもなく大切で貴いものに思えた。
同時に飢えのような感情も湧く。
それを浴びたい、それになりたい、それがほしい。
「ある」ということすら知らなかったうちは欲しがることもなかったけれど、今は違う。
どうしたら「それ」を得ることができるのか。
ヤザンは知らずのうちに胸の前で手を組み合わせていた。
それは祈りの形のひとつだ。絶対の服従を見せた姿勢。自分は弱者であると全身で語る姿勢。両手に武器のないことを示して、すぐに手に取れないよう組み合わせて、あなたの意思をなんでも受け入れる、そうします、そういう姿勢だった。
かれの弟は、その無力さ無垢さによってシャプールの慈愛を得ているのだ、というのがヤザンが無意識のうちに出した結論らしかった。
もはや、シャプールをただの人の子として見ることはできなくなっていた。
突如として姿を現した両親の不在、愛情の欠如という心の風穴。
その虚を埋めるようにシャプールという人物を大事に詰め込んだ。
この人なら無条件に信じられる。この人の愛は信じられる。
そう思ったし、この人のためなら命さえ投げ出せるだろうと、偽りなく、本心からそう思ったからだ。かれの存在がこの胸の裡にあれば生きていくことができる。たったそれだけのことが、生きる理由になると信じた。
「休憩中にすまなかったな」
「……いいえ。とても有意義な時間でした」
「それは皮肉か?」
「とんでもございません!」
慌てふためくヤザンを見て、シャプールは快活な笑い声を響かせた。

・・・

「だが、あの日、最初で最後の懇願が耳に届いた日」
ヤザンは組み合わせた指先が白くなるほど硬く握りしめている。食い込んだ爪が今しも皮膚を切り裂こうとしているが、ヤザンには気にしたふうもない。それほど深い悔恨なのだろう。
「わたしだけ救われておいて、わたしはかれに何も返すことが出来なかった」
血を吐くように呟いて、無理矢理口角を吊り上げた。それはどこか、自身を嘲笑しているようにも見える。
練兵場はいつも通りに騒がしい。二人の周りだけがすっぽりと覆いを被せられたように寂寂とした空気を漂わせていた。
「……シハーブの名前が出てこなくなったな」
「シハーブですか。かれは死にました。王都を出る直前に、奴隷たちによって……」
かれのことを傲慢だと思う人も、中にはいましたから。表情を消したヤザンはやけにあっさりといらえた。
「『たったひとりの命を守ることが、こんなにも難しい』。本当にその通りですね。無力であるせいで、助ける相手を選ぶことさえできない」
ましてや、救うことなんて。そう言うと、やっと身体の力を抜いて、組んでいた手を解いた。
「うらぎりもの。そう言って笑ったんですよ、かれ。『私はおまえを父のように思っていたのに』って、今際の際に」
「約束でもしていたのか」
「いいえ、何も。私はどうしようもない莫迦で、あの時になってようやく、何か期待されていたのだと知ったんですから」
両手をゆっくりと持ち上げ、ヤザンは顔を覆う。手の甲には血色をした三日月がいくつも並んでいる。既に傷跡になっている月もあり、この男は常に苛まれていたのだと判ぜられた。水底から発せられたようにくぐもった声がした。
「もしあのまま……異動をしないでかれの側に居続けたら、かれを救うことができたんでしょうか」
「無意味な質問だ」
「……あなたは靭い人ですね」
私とは大違いです。顔を覆ったまま、ヤザンはすこし笑ったようだった。その声に滲むのは諦めと名付けるのが適当だろう。
「しばらくは失意のうちにありました。王都は占領され、命だけ持って逃げました。……逃げたのです」
またしても握られた拳に現れるのは自分に対する激しい失望。穏やかに垂れていた眉をきつく寄せ、瞑目して回顧する。
「かれが守ろうとした国を守ることもできず、泣きながら犯される女を見殺しにし、串刺しの赤子を見捨て、燃え上がる王都を背にして……かれのように誇り高く命を散らすこともできず。私が命と引き換えに数人の兵士を亡き者にしたとて戦況など変わるはずもない。そう自らに言い聞かせて、気づけば生まれ育った村まで来ていました」
食い縛った歯の隙間から押し出されたように、一つ一つの言葉がざらついた響きをもって耳に届く。
亡者のように過ごしていたのだと言う。男はゆっくりと顔をあげた。
「ある日、ルシタニア追討令が出されたのだと聞きました。それから、各地の諸侯の方々がペシャワールを目指されていること、その中に、イスファーン、という名前の男がいること」
すぐわかりましたよ、と男は仄かに笑う。それで、また軍に戻ることを決めました。
「なかなか有名人だな、あやつも」
「——……だから、イスファーンさまが求めるなら、あなたを殺す覚悟だってあったんです」
「それで、弓の鍛錬を?」
男に向けて他人行儀ににこりと微笑んだ。
「……よく、意地悪だって言われませんか?」
「おやよくおわかりで」
他人の嫌がることを思いつくことにかけて、おれの右に出る者はそういまいよ。笑みを保ったまま言うと、ヤザンはいささか鼻白んだように黙る。
「おぬしだろう、最近おれに熱烈な視線をくれているのは。女性ならいざ知らず、男からもらって嬉しいもんじゃないが」
「……」
「見られるなんて日常茶飯事だからなんてことない……でも、もう一人いるだろう、視線を向けている相手」
「意地悪なうえに、目敏い」
「女性の心を射止めるこつというもので」
ヤザンは胡乱な目をした。じゃっかん軽蔑の色が混じっていないでもない。その灰色の瞳を一度つよく歪めたあと、ゆっくりと息を吐いて両手を挙げた。
「すべて白状いたしますから」

『たったひとりの命を守ることが、こんなにも難しいことだとは』
かつてシャプールが苦笑いしながら言ったその言葉が、ずっと耳について離れなかった。
確かに私は救われた。かれにとっては何気ない一言だったかもしれないし、救った覚えなんてないかもしれない。それでも、存在を許容してもらえた、そのことがどんなに救いになったか。
「救わなければならないんです」
眼前の男は、感情の読めない顔をしていた。こんなにも目鼻立ちは際立っているというのに、数瞬の後には靄にまぎれてかき消えてしまいそうな、そんな模糊とした顔だった。きっとこの方にとっては理解しがたい感情だろう。誰に恃むでもなくひとりで生きてゆけるひとだから。
「恩返しがしたかった。なにかあれば、きっとその場に駆けつけようと、そう心に決めていたのに、事もあろうに私だけが生き残ったのです」
恩返しがしたい相手はもういない、と思っていたら俤のある人がすぐそこにいるではないか。
面立ちこそ似ていないが、ふとした仕種、身につけた紫色のマント、緑がかった空色をした髪留め、そしてなにより声が、かれはシャプールの縁者であると雄弁に物語っている。
「ほんとうに、些細なことの端々に彼の方を感じるのです」
二人だけを忘れたように騒がしい練兵場。どこかでどっと歓声が湧いた。
かれに複雑な思いを向けていることは間違いない。
「わかっておりますとも。これが随分と傲慢で、夢見がちな考えだということは」
私は思い知った。たった一人の命を救うことが、あんなにも難しいことだとは。
それでも、今度こそおれが、命を擲ってでもかれを楽にして差し上げるのだ。かれの願う救いを叶えねばならぬのだ。
「これが、技倆を磨きつづける理由です。求めれば誰の命でも奪えるように。必要とあらば、かれ自身でさえも」
ぐちゃぐちゃに絡まった感情は、自分でも解体できなくなっている。
シャプールを喪ったことでふたたび開いた穴を、イスファーンで埋めようとしていた。
預けたい、守りたい、叶えたい。できなかったことを今度こそ成し遂げたい。そうしなければ今日まで生き延びた意味がない。守るべき人々を見殺しにして、友を置いて、永らえた、意味が。
酷なことをしていると思う。自分が、どれだけ重い感情をかの人に向けているのか、どれだけの重荷をかれに背負わせているのか、わかっているつもりだ。
せめてあの時、シャプールさまが、みっともなく命乞いをしてくれたなら。
そうしたら、あの方もやはり人間だったのだと諦めもついたのだろうか。
しかし、結局あの方は最後まで高潔で、おれには届かない高みに居続けた。こんな責任の転嫁も許容しようとした。
だからこうして今も、置いて行かれた子供のようにシャプールの俤を探し彷徨っている。
「それを当然のように背負っているかれは、やはりシャプールさまの弟御であるな、と思います」
なにかを諦め切った表情でヤザンはそう締め括った。

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