「は? ……は??」
目覚めると、隣に男がいた。
想定外の事態に起き上がれもせず、ただ横目で隣にいるのが見知った男であることを確認し、これが紛れもない現実であることをどうにか嚥下する。
朝──普段の起床時刻からすれば昼近くと言ったほうがいい時間帯だが、とにかくその日初めての覚醒を朝として──イスファーンが目覚めると、隣に男がいた。男の名をギーヴと言った。兄の命を奪った張本人であり、頭に血の上った挙句決闘まで挑んだ相手。そりの合わなさを覚えつつも和解をし、今は僚友として肩を並べている男。
しかしいくら和解したとはいえ、さすがに同衾を許すほどの仲ではない。そして隣の人物が女好きと知らぬのは異邦人ぐらいのもの。好き好んで男との距離を縮めようとするはずがない。
では、なぜこのようなことに?
結局疑問はそこに回帰する。
「おい、覚えてないのか?」
どれほど深刻な顔をしていたのか、ギーヴが声をかけてきた。起きていたらしい。体重を移動させると寝台がギシリと鳴くのが、妙に部屋に響いてよろしくなかった。
部屋。
部屋といえばここは両人どちらの私室でもなかった。
白く埃の積もった床には二人分の足跡。錆の浮いた武具が壁に立てかけられている。自分たちの寝ている寝台が壁際にひとつ。窓のかわりに小さな明かりとりが天井付近にあった。
天井に固定していた視線をすこし彷徨わせてみると、休憩用の部屋だとわかった。夜を徹して見張りをする兵士たちが、仮眠をとるのに使う。とはいえ、あまり清掃されていない様子を見るに、使われなくなった部屋のようだ。
「んんっ」
無視をされ続けているギーヴが咳払いをした。体を起こした男の、腰から脇腹の肌色で視界の二割が埋まる。
そろそろ目を逸らし続けるのも無理があった。光が滲みたように、イスファーンは両腕で目を覆って呻吟する。
「ほんとうに、なに……?」
「まだ寝ぼけているのか? 昨晩の、」
「ちょっと待て……いま思い出すから急かすな。いや、むしろ思い出さない方がいいんじゃないか?」
「宴会、それから酒」
「……なぁるほど……」
待てと言ったろうに。イスファーンは諦めの気持ちで長く嘆息する。
脳内でもつれあっていた記憶の糸玉、その端緒を引っ張り出したのは彼が端的に並べた単語。
たしかに、昨晩はずいぶんと過ごした記憶があった。
廊下に漏れ出て鼻先を掠めるのは、脂と肉が焼けた香ばしい匂い。甘辛く煮詰められた調味料のすこし焦げた香りに、口内の唾液がどっと溢れる。
空いている席に腰を下ろすと、匂いがより強くなり、はやく食わせろと腹が鳴く。卓の上には豪勢な料理が所狭しと並べられており、目にも鮮やかだった。目に入る限りではよく煮込まれ柔らかそうな鶏肉、光源の明かりを照り返す豚肉と香草の炒め物、酒と果実水、それから馬乳酒だろうか、独特な匂いの飲み物も用意されていた。
何からいただこうかと皆が思案しているだろう。もしくは早く酒が飲みたい、あたりだろうか。浮かれた空気がただよう広間で、皆が主役を待っていた。
ようやくアルスラーンが現れる。彼が挨拶を手短に済ませて「では、」と口にした瞬間には、もはや殺気じみた期待感がはちきれんばかりに充満していた。
「無礼講だ!」
爆発のような歓声が上がった。
だれが呼んだのか、宴席には酒妓が侍っていた。別段珍しいことではないのだが、女性に傅くように奉仕されることに慣れないイスファーンにとっては苦手意識が拭えない存在だ。それとなく彼女たちの視界に入らない位置を保持しつつ料理をつまむ。
「普段はこんなに早く酔うことはないんですが。貴女の美貌に酔ってしまったようです」
背後でギーヴが甘ったるく口説いているのが聞こえた。その調子でなるべくたくさん引きつけておいてくれ。
胸焼けのしそうな台詞を辛口の酒精で無理に流し込む。冷えた液体が滑り落ちていくのを感じながら、次の酒を杯に注いだ。
「やけに速いな」
どさりと隣に腰を下ろしたのは隻眼の大男だった。何かあったのかという言外の問いは、相談に乗るというより酒菜にしてやろうという魂胆から来るのだろう。
「クバード卿……いえ、なんでも」
「童貞ってわけじゃないんだろう?」
「!?ッぶぇっふえっふ、え?」
唐突な問いに、液体が行くべき道を間違えた。噎せるイスファーンを気遣うでもなくクバードは話を進める。いや、目の前の酒瓶を取られたのは遠回しな気遣いなのだろうか。
「避けてるだろ、女」
酒を呷った顎でくいと背後を示す。
「いや、まぁ……はい」
「それはどっちの肯定だ? ん?」
「なぜそんなことをお訊きになるのです」
「おい、質問してるのはこっちだぜ。やはりあれか、まだなのか。それなら良い店を紹介してやろう、初心者向けの」
「そう揶揄わないでください」
ひとまず困ったように眉を下げてみる。この人相手に効果があるとは思わないが、だれかこの光景を見た善良な人間が、助け舟を出してはくれないかと期待して。
「純情なイスファーン卿に絡むんじゃありませんよ」
釣れた。誰だかわからぬが後で礼を言おう。
向かいから聞こえてきた声に喜びいさんで乗ろうとした。そこへ、またしても断りなく隣に人が座った。
「楽しそうな話をしているじゃないか」
これは顔を見るまでもなく声でわかる。ギーヴだ。
「狼殿の艶聞はこのおれでさえも聞いたことがなくてね。ぜひお聞かせ願いたい」
せっかくの舟は客を乗せぬまま旅立った。
「やはり楽士どのも気になるか。だ、そうだぞ、イスファーン卿」
「……」
なんと答えたものか。こうなればどう言い繕っても、もしくは本心を話しても、揶揄いの種を提供することに代わりはないだろう。
眉間に皺を寄せて推し黙るイスファーンをどう解釈したのか、ギーヴの唇が弧を描いた。時間をかけすぎた。この顔はまずい。
「ずいぶん酔っているようだな、ぼんやりしているぞ」
「そういや結構な調子で飲んでいたな」
ギーヴの猫撫で声に嫌な予感を覚え腰を上げる。逃げなければ。しかし足裏がうまく床を捉えられない。床が不自然に傾いている、と思うのは酔っているからだ。一度二度たたらを踏んで、ようやく体勢を整えたころには、しっかりと立ち上がったギーヴが目の前にいた。ぐいと手を引かれ、歩かされる。
「おい、どこ行くんだ」
「酔い覚ましですよ」
まだ何も聞いてない、とわずかに残念そうな男の声が投げかけられる。それにひらりと振った手がそのままイスファーンの腰を抱いた。
吐き出す息が酒臭い。この男もかなり酔っているのだろう、そのはずだ、そうであってくれ。必死に祈りつつ、もつれる脚を動かした。
何度か角を曲がって、のたのたと階段を上がり下がりして、たどり着いたのは埃っぽい部屋。二人して倒れるようにして転がり込んだ。部屋の荒れ具合の割に、寝台は柔らかく二人を受け止めた。
部屋はほとんど青い闇に沈み込んでいる。小さな明かりとりから差し込む月光だけがぼんやりと仄白く浮かんでいた。やがて慣れてきた目に、部屋の戸を閉める男の背が見える。
「おい、何、っごほっ」
舞い上がった埃を吸って咳き込むイスファーンを気遣うように、背中に手が添えられる。それに抱き起こされるようにして座り直すと、目の前には妙な光を湛えた碧眼があった。それがすい、と細められて光は寸時つややかさを帯びた。
「筆下ろししてやろう」
「……なんて?」
階下の喧騒が幕を隔てたように遠くに聞こえた。だから眼前の男の声を遮るほどではなかったはずだが、それでもイスファーンは聞き間違いを疑った。
「まあまあ」
「いや、まあまあではなくて」
そういう間に、ギーヴは神がかり的な素早さで腰の帯を解き終えている。イスファーンの抵抗はほとんど意味をなしていなかった。
「びびってんの?」
「そ、んなわけあるか!」
「では堂々としておればよいではないか」
「それと、これと、は、別の、おい手を止めろ!」
経験の多さゆえか、生来の器用さのせいか、舌の回りと手の動きは互いを邪魔しないようだった。あれよあれよといつのまにか下半身はほぼ丸裸にされている。
「女を知らんというのが可哀想でなぁ……一度経験すれば自信もつくだろう、というこれはいわば親切よ」
ほんとうに哀れみを込めたように、下着の上から局部を撫でさすられる。さざなみにも似た微弱な刺激が皮膚の下を這っていく。愛撫を模した動きに背筋がぞくりとしないでもなかったが、それよりも相手のまずさのほうが勝った。
「余計なお世話!!」
「このギーヴ、そこらの女よりも価値があると自負しておる。名誉と思え」
「……勃たんな」
「ふん、百戦錬磨が聞いて呆れるではないか」
しばらく局部をあれこれと弄られていたが、それは鎌首を擡げることはなかった。
変に疲れたし、妙な汗をかいた。しかしこの男相手に興奮できようはずもない。勝ち誇るように言うと、ギーヴはさして傷ついた様子もなく体を起こした。
「おぬしが飲み過ぎただけだろう。ならばこっちだな」
「おい!」
伸ばされた手は性器を通り越して尻に至る。
それはもはや筆おろしとは言えない。というか、
「慣らしてもない穴に入るか!」
「……知識はおありのようで」
「あっ」
失言を取り沙汰されるかと思ったが、ギーヴはするりと寝台をおりて、辺りを手探り始めた。
「多分この辺りにだな……」
今のうちに逃げ出せるだろうか。イスファーンは床に放られた下衣に手を伸ばした。その瞬間、男がくるりと振り返る。
「ほらあった」
男が掲げて見せたのは小瓶である。なだらかな肩のある容器が、僅かな光を弾いた。ギーヴが蓋を取った瞬間、甘い香りが部屋いっぱいに広がる。丁子油のようである。
もともとここは兵士の休憩用の部屋であるから、武具の手入れのために置いてあると思えばおかしくはない。だが、いやに真新しい瓶と埃っぽい部屋の様子が不釣り合いで、イスファーンは顔を顰める。
「なんでこの部屋に、そんなものがちょうど良く転がってるんだ」
「なんでってそりゃお前、ここがそういう用途で使われてるからだよ」
観念するんだな、と悪役そのものの台詞を吐いて、ギーヴはイスファーンの手から下衣をもぎ取った。
「どうせさっきと同じ結果だ。やるだけ無駄だろう」
「さてね。それはやってみなくちゃわからないだろう?」
匂い立つように光る瞳を弓形に細めて、ギーヴは小瓶を傾けた。
「結構、わりと、死にたいかもしれない……」
思い出してみると頭の痛み、だけでなく体の各所が痛い。股関節も痛い気がするし、尻も。いや痛みというより違和感か。ぽっかりと穴の空いた感じが奇妙だ。縁が熱を持って腫れたような感覚がある。
昨夜の媚態を思い出しては赤面し、相手と出来事を思い出して蒼白に、と忙しない顔色を見てギーヴがにたにたと笑っている。
体を起こしその胸に指を突きつけた。
「おまえにも関係のあることだろうが! 男としたなんて、おまえにとって不名誉なんじゃないのか!?」
「まあ今でも相手にするなら女性の方がいいとは本気で思っているが」
「だろう?! だから、」
無かったことにしろ。そう提案しかけた声が、ギーヴによって遮られる。
「しかしこれは忠臣としての行いゆえ、無かったことにはできぬなぁ」
「は、?」
忠臣としての行い。そう聞こえた。
目覚まし開口一番と同じ音しか出せなくなっているイスファーンに対して、言い含める調子でギーヴは続ける。
「いや、陛下があまりにもおれとおぬしの仲を心配するものだから、」
「……だから?」
恐る恐るイスファーンが先を促す。
「いっそ同衾しています、と」
イスファーンの怯えを愉しむかのようにゆっくりとした調子だった。
そうご報告差し上げればご安心いただけるかと思って。いかにも真面目くさってそう付け足した男の正気を疑う。
「嘘でも言えるか馬鹿者!」
「嘘ではなくなってしまったものなぁ?」
目を細めて薄く笑う男は気怠げな色香を纏っている。立てた膝に頬杖をついた姿は一幅の絵画のごとく。実用にも鑑賞にも堪えうる肉体美を白昼のもとに惜しげもなく晒す。
ぐ、と言葉に詰まるイスファーンもいまだ裸である。がくりと俯くと、癖の少ない髪が肩口からさらりと流れ落ちた。
外では雲雀のつがいが長閑に囀っていた。
【虎渓三笑】
話が尽きず、いつもは虎渓に架かる石橋を出たことがないのに、気づいたときには、虎渓を数百歩も過ぎていたので、3人は手を打って大いに笑ったという。
売り言葉に買い言葉で一線越えちまう系のギヴイスを書こうとした(失敗)
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