心地よい風が運ぶ、少し青苦いような、甘いような香り。鼻先をくすぐる柔らかい何か。まぶたを透かして感じる陽の光、そのあたたかさ。目を開く前からとても良い日だと確信できる目覚めだった。
私は嬉しくなって笑いながら体を起こした。
不思議な場所だ。どこまでも青空があり、どこまでも花が咲いている。そして私以外誰もいない。
だがそれは幸いだ。傷ついた者がいないというのはどんなにか喜ばしいことだろう。弱きものを守るために剣を振るうことすら必要ないのだから。
ここには必要ないと思って、剣は地面に突き刺して行った。思えば、家のため、騎士見習いであったころから片時も手放すことはなかった。
でも、ここにはもう必要ない。もし後から来る人がいるなら、その道標程度になればいいと思った。
あてどもなく歩いていると、どうにも無骨な装備が気になってきた。顔でしか風を感じられず、頑丈なブーツが草花を踏みにじっているようにしか感じられない。
急いで紐を解き、ブーツを脱いで柔らかな土を踏みしめる。久しぶりの感覚だ。そう、土は意外と暖かで、包み込まれるような感触をしている。しばらく触れていなかった。故国を出てからずっと、踏み固められた道、固い石畳、険しい山道、そういったものの上ばかり歩いてきた。邪魔だからといつも束ねていた髪も、自由に風に遊ばせる。やわらかな風が髪を浮かせて頬を縁取る。
そうしていると、いつの間にか甲冑は着込んでおらず、一枚の簡素なワンピースだけを身に纏っていた。女としての名を一度捨ててから、このような格好をしたことはない。覚悟のために全て燃やしてきたし、その後も買い求めたことはなかった。守られる側であってはいけないのだから。
だが、守るものも守られるものもいないここは、女騎士エステルでもなくエトワールでもなく、ただのエステル・デ・ラ・ファーノとして居てよいここは、ひどく心地が良かった。楽しくなってきて、また一歩踏み出す。
ふと、どこからともなく、風が花びらを運んでくることに気づく。それだけでなく、花が丸ごと一本、ぽとん、と降ってくることもある。
天を見上げても金色に輝く雲が流れているだけ……。不思議だが怖いと思うことはなかった。むしろ、なんだか嬉しかった。 胸があたたかい気持ちでいっぱいだ。
どこまでもどこまでも歩いた。
道中にときおり、風にたなびく旗のような物を見た。それは私が唯一と信じ仰ぎ見たものの象徴をかたどっていたような気もする。だが、あれはもう、掲げずとも、私の胸のうちにあればよいのだ。そう気づいている。気づかせてくれた人々がいる。
「このように広い土地ならば、すべての人間が住めるかもしれないな」
目を見開いた。ああ、
「……………………もしや、ここが、 」
花が、また一本落ちてきた。
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます