あれだけ多くの命を屠っておいて、自身は幸せな最期を迎えられるなど、そんな甘い考えを抱いているつもりはなかった。もう、子供ではないのだから。自分が一刀のもとに切り捨てた兵士にも帰りを待つ家族や愛すべき恋人がいるだろうことは知っていて、そのうえで自らの信じる義のために殺しているのだ。
寒い。夏が終わったからか、服を着ていないからか……それとも血を流しすぎたからか。
一呼吸ごとに体温が流れ出ていくのを感じている。固まった血液が至るところに貼りついて不快だった。当たり前だが、敵国の将に掛けられた縄には傷口を労るような配慮はなく、肩口に刺さったままの鏃もそのままに後ろ手にきつくしばられている。
頭が硬いとよく揶揄されたが、それでも阿呆ではないつもりだ。自らの置かれた状況は理解しているし、これから先に何が起こるかも予測できる。
つまり、これからおれは、王城の前に晒され、パルス軍の士気を下げるための見せしめにされる。そしてルシタニア軍を鼓舞するために殺されるのだろう。戦場で捕らえられ、すぐさま殺されなかったということはそういうことだ。言葉が通じずともわかる。
単なる寒気か、もしくは悪寒かもしれぬ。身震いに縄が軋んだ。
国が変わっても信仰する神が違くても、やることは変わらんな。思わず口角を上げかけたが、固まった血が邪魔をした。
その道に熟練した者、達人と呼ばれる域に達した者ともなれば、それが起こる前にその軌跡がわかるのだという。つまり相手の剣先がどのような軌道を描くか、穂先がどこを狙うか。そして、矢がどこに届くのか。
すでに目は霞んでいた。先程叫んだせいでまた血を失ったからかもしれない。あるいは狂ったように殴られた時に木片でも入ったか。
だが、確かに見た。
城壁のさらに上、そこに足場などないことは王都に住まう者なら皆知っている。だが、確かにそこに軽やかに立ち、まっすぐこちらを見抜く男。目があった気さえした。あの男だ。あの男がおれを殺すのだ。
もはや予測などではなかった。確信だ。確定された未来だ。
その一矢は必ず我が脳天を穿つ。
放たれる直前、風に煽られた男の首元で何かが翻った。途端、ひとつの記憶が脳内を疾る。
兄の真似をして髪を伸ばすと言った弟、しばらく見ないうちに本当に髪が伸びて、もう結わえるようになりました、そう嬉しそうに駆け寄って来た弟の、首筋で揺れる亜麻色の髪。
俺は死を恐れてはいない。見も知らぬ誰かに、なんの感情も込めず殺される覚悟もしている。子供ではないのだから。
ああ、だけれども!
もう一度結ってやりたかった撫でてやりたかった!
轡を並べて、肩を並べて駆けたかった!!
今度こそ笑った。笑わねばならないと思った。
あの城壁から遠く離れたここまで、射抜ける技倆を持った者がいまだパルスにいるのだ。万騎長に勝るとも劣らぬ技倆だ。少なくとも弓において、あの酒呑みのほら吹きよりは確実にできる。そんな人物が残っているというならば。我が弟がむざむざと殺されるようなことはないだろう。身内の贔屓目を無しにしてもあれはよくやるのだ。
ひとりでないならばそれで良い。あれは存外さみしがりやなので。晒された首級のなかに隻眼はなかった。
ならば。そうであるならば、左様ならば。
兄は安心して逝けるというものだ。
もはや地上の惨事は見えなかった。
ただどこまでも果てしなく続く蒼穹と、それを切り裂いて進む鏃を見た。
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